常識・マナー違反の指摘が相手をイラつかせる理由とそれを避ける方法
人は自分の常識から外れた行いを発見すると、「余計な一言」が出やすくなる
家族や友人、部下や後輩や恋人が常識破りなことをした、マナー違反をしていると感じた時に、思わず口から以下のような言葉が飛び出ていた、ということはありませんか?
「そこは〇〇だよ」「普通はこう」「こうした方がいいに決まってる」「そんな考え方おかしいよ」
意識している、していないに関わらず、誰にでも自分にとっての「常識」がありますが、その常識に固執してしまったあまりに、人に嫌な思いをさせてしまった経験のある人は多いと思います。人は、常識から外れた行いを発見すると、咄嗟に怒りを感じたり、注意の言葉が出やすくなりますが、その「余計な一言」は、多くの場合、相手との関係性を悪くします。
常識には、これまでの人生で体験したことから得た常識や、教育を受けたことで生まれた常識もありますが、それ以外にも、一般的な常識に反発することで生まれた自分にとっての常識や、専門的な学習や社会的な問題について興味を持つことで生まれる常識もあります。
こうした、「多くの人が守ることで世の中が良くなるはずなのに」と感じる「個人にとっての法律」とも言える常識は、時に、自分を頑固にさせてしまったり、自分が信じる法律に従わない人を、「問題ある人」とみなし、他人との間にトラブルを起こしてしまう場合があります。
常識を押し付ける一言ほど相手に届かない言葉はないということを知る
人によって意見は異なるものだということを受け入れられる人であれば、自分の常識と他人の常識は違うのだから、相手がどんな考え方でも問題ないと感じられる人もいますが、自分が信じる「常識」が誰かの命を守ることに繋がっていると強く信じている場合などには、相手のルール違反を黙っていられない、という場合が出てきてしまいます。
例えば、子供を育てている人にとっては、子供のそばでタバコを吸う人や、スピードを出している自転車といった、マナー的に問題があると思われる人を「非常識」と感じます。立場が違う人にとってはそれほど強く意識しないマナー違反でも、自分にとっては法律違反と同じレベルに非常識だと思う場合もあるでしょう。
これは、「守りたいものがある」からこその当然の反応ですが、守りたいものを共有していない人や、マナーの意識レベルが異なる人にとっては、マナー違反を指摘したところで、「うるさいことを言う人」だと思われるだけです。
「常識だからこうすべき」と言われても、ほとんどのマナー違反者は、「はい、その通りです」と素直に言うことを聞くことはありません。なぜなら、彼らにとってはマナーも常識も違反していないからです。
マナーや常識の範囲が異なる人の場合、スマホを見たまま歩いては行けない、とか、自転車をここに止めてはいけない、というマナー違反への注意は響きません。それどころか、マナーや常識が異なると、注意する側に対して、「言動や行動を制限し相手を支配したい人間なのではないか」と感じ、自分は間違っていない、と主張する場合もあります。結果的に、相手側が、注意した側を「非常識」だと認識することにもなるのです。
母親や父親が子供に対して事細かに行動を制限する場合、コントロールフリーク(相手強く支配しようとする人)と呼ばれ、相手を自分の思うようにコントロールしなければ気がすまないモンスター扱いされますが、他人に対して頻繁に行動を制限するようなことを言えば、同じように「小言モンスター」のように認識される可能性があります。
従わせようという意識で発した言葉ほど、相手には拒否されてしまう
思わず相手を注意したくなるような行動や言動は、それをしない方が人々が良く暮らせると考える良識から来ているはずです。良識があり、それを強く守ろうと意識して暮らしている人は、みんなが気持ちよく暮らせる、なるべく多くの命が助かる世界でいたいと思うからこそ、今の常識を持つようになったはずです。
ただ、常識やマナーに違反する人があまりにも多いことで、良識的な人が相手を注意することにばかり夢中になってしまい、そのうちに、「ルールを守れとうるさい人」としか認識されなくなってしまうと、本来守って欲しいと心から願うマナーやルールを相手が大切なこととして受け入れられなくなってしまいます。
売春や麻薬ビジネスなどは、法律で禁止されています。それでも、こうしたビジネスが消えない背景には、それらを必要としたり、必要としていると思いこんでいる人が大勢いるからです。例え法律に違反しているとしても、お金を払ってでもそのサービスを受けたいという需要のあることは、それを察知した人々からのサービスの供給を生み出してしまいます。
法律で違反されていることを行えば罰則が課される可能性があるにも関わらず、その危険性を分かった上で法を犯す人々がいることを思えば、「法律で禁止されていないマナーや暗黙のルール」を守らない人が大勢いるのは当然のことと言えます。
罰則のある法律でさえ人を完璧にルールに従わせることはできません。
そうであれば、子供のため、動物のため、女性のため、障がい者のため、コミュニティのためといった大事だと思われる常識やマナーを守ってもらうことは、「常識の押しつけ」では無理なのです。
余計な一言、のほとんどが「常識の押しつけ」「マナーの押し付け」から生まれます。
「〇〇するべきなのに」「〇〇するなんて常識がないよ」「〇〇って知らないの?」
常識だ、これはマナーだ、と思い込んでいるほどに、「どうしてこんな事も知らないのか?」「なんで守れないの?」という想いが強くなり、つい、強い口調で「なぜできないのか?」と問い詰めてしまうものですが、この言い方で人が言うことを聞いてくれることがあるとすれば、それは独裁政権になっている状態にある場合か、たまたま相手が、本当はその常識を守った方が良いと感じていた場合だけです。
だからこそ、相手に、心からマナーを守ってもらいと感じるのであれば、「余計な一言」を吐き出すことではなく、「真似をしたくなるモデルとなる」ことが大切です。
そのマナーやルールを守るとどんな「メリット」があるのかを伝えるのが大事
はっきりとした物言いや、不都合な真実を突きつけるジャーナリストのような姿勢が世の中を動かすことはあります。
多くの人が、「新しい常識」に気づくためには、メディアで話題になり、人々が意識を改革するために「あれってこうよね」「こうじゃないと変だよな」と話題にするようになることも大切です。
ハラスメントが認識され、それに違反してはいけないという考えが広がったのも、情報発信を続けた人、苦しい思いをしたことを世間に訴えた人、広げた人々やメディア、教育に取り入れた人々などがいるからこそです。
しかし、セクハラが認識されて間もない頃には、男性に対して「それはセクハラです」と言えば、「融通のきかないうるさいやつ」と認識されたり、「あいつはだから〇〇なんだ」と、影で噂されるようなターゲットにされることも普通にありました。常識が変化する過程の中では、その常識に反する行動は、それがどれだけ正しいとしても、それがどれだけ人の心や命を守っているとしても、反発する人がいます。前の常識に慣れていて、その方が心地良いと感じている人にとっては、新しい常識を持ち込む人は邪魔者でしかないからです。
だからこそ、相手を味方に付ける方法を考えなくてはいけません。仲間になりたいと思える環境を提示する必要があります。
相手が喜んでマナーを守りたいと思ってもらうには、「〇〇すべき」ではなく、「〇〇した方が良いことがある」というイメージを相手に持ってもらう必要があります。例えば、マナーを守ることで相手のイメージが良くなり、人に好かれるとか、楽しい時間が増えるとか、プラスに思えるようなことを増やしていく必要があります。
守らなければいけないルールではなく、自分から守りたいルールと思ってもらうことは、とても大変なことではあります。相手に良いイメージを持ってもらうには、時には、世代交代を待たなければならないほど時間がかかる場合もあるでしょう。
しかし、「これは守るべきルール」ではなく、「守りたいルール」だから自分から守る、という感情で守るルールは継続性を持っていて、廃れにくいものになるので、「この常識を守る方が自分が幸せになる」と思ってもらうように、人々に広めるようにする必要があります。
「その方法は違う」「その考え方は違う」と思った時には、余計な一言や、守らない人を否定する言葉ではなく、ルールやマナーや、そのやり方を守るとどんな良いことがあるのか、それを守ったことで自分にとってどんなプラスがあるのか、を広めることが大切です。
目的を達成することを重視して、相手に伝わる言葉や行動を選ぶようにする
例えば、麻薬に手を出す人の多くが、「自分の人生には価値がない」と思っていたり、苦痛から逃げる手段として麻薬に手を出してしまいます。法律やルールを守ったところで辛い人生だと思うようになると、人は、ルールやマナーを守る動機を失います。
この場合、麻薬に手を出そうとしている人に対して衝撃を与える、真実を理解してもらう事を目的として、麻薬中毒になって悲惨な目に遭っている人の話をして麻薬に手を出す人を減らそうとする場合がありますが、実際には、厳しい話になるほどに、耳を塞ぎたい、目をつむりたいという人が多いというのが現実です。
マナーの提案だけでなく、環境問題や、動物愛護などにも通じることですが、ルールやマナーを守ってもらうために厳しい現実ばかりを突きつけるだけでは、人は、それを見たくない、と本能的に避けてしまう場合があります。
だからこそ、「真実を知りたい」と思えるまで誘導するために必要なことは、「このルールを守った方が自分が得をする」と、心から思ってもらうことです。
楽しい事が世の中にあることを知り、夢ができると、長期的な視点で人生を考えることができ人生に目標ができるようになります。すると、麻薬が損であるということが腑に落ちるようになります。
いつか自分も子供を育てるかも知れないとか、自分が子供を育てなくてもいつか若い世代に介護などのお世話をしてもらう日がやってくると心から思えば、子供を大切に、子供目線に立とうという気持ちが生まれます。
空気がきれいで、木々が健康であることで花粉症が減る可能性や、添加物のない食品を摂取することでアレルギーの可能性が減ることなど、自分に直結することほど、人は興味を持ちやすくなります。
山登りの好きな人がゴミ問題に興味を持ったり、サーフィンが好きな人、ダイビングが好きな人の方が海の環境問題に興味を持つように、自分が苦しんでいることが楽になったり、好きなことを継続するために必要と思える時、人はそこに立ちはだかっている壁が見えるようになります。
だからこそ、相手からの興味を引き出すことが肝心であり、相手の興味を失わせてはいけません。
これは、日常の仲の些細なマナー違反でも同じです。食事中にスマホばかり見ているのがいけないと言われても、自分がそれに納得していなければ、それをマナーと認識することはできません。でも、家族や友人に「相手に興味を持っている」とか、「食事に感謝しています」という姿勢を見せるには、食事に集中したり、一緒にいる相手に集中することが大切で、それをしないくせが付いてしまうと、「できないやつ」と思われたり、「気を使えない、心無いやつ」と思われる可能性があるという事を知れば、少なくとも自分が損をしそうな場ではスマホを見ながら食事をすることは無くなるでしょう。
大切なのは、心から納得してもらうことです。そのためにも、「余計な一言」を封じるようにしましょう。
余計な一言の前に口を閉ざし、一番伝わる言い方を考える習慣をつけよう
もしかしたら、「自分は間違っていないのに、どうしてこちらが折れなければならないのか」と感じてしまう場面もあると思います。自分にとっては、常識中の常識、という事に違反されると、人は怒りを感じる場合もあり、「なんでこんなことするんだ?!」と本気で相手の精神を疑うという場合もあるはずです。
それが法律に違反していれば、警察を呼ぶ、裁判にするといった展開になる場合もありますが、法律に規定されていない場合には、まだ世の中的には強制力を発揮しなければならないほどの常識にはなっていないということです。
自分にとっての常識中の常識が合わない相手の場合、通常は友人になることを避けたり、恋人には避けると思いますが、それでも、常識がぶつかるといった事は起こってもおかしくありません。
守らない側には守らない側の理由があるものです。特に多いのは、相手が常識を「知らなかった」という場合や、マナーに興味を持てなかったという場合です。
どれほど常識的なことでも、知らない人には「存在しない常識」です。無関心な人にとっては、「興味のないマナー」です。そこに対して、常識だから、と激しく怒ったり、当たり前だと説教をすることは、かえって怒っている側が人としての一般常識を疑われることにもなるので、「マナー違反」と感じたら、すぐに怒るのではなく、こうしてくれると、周りはこんな風に助かります、と丁寧に説明する姿勢を心がけましょう。
常識やマナーが通じない場面に直面したら、一度落ち着いて、数秒黙って時をやり過ごすくせを付けると、咄嗟に余計な一言は出なくなります。
そして、「ここは自分の知っている世界ではない」と判断し、別の常識で生きている人に対して、よりこちらの常識が「楽しいもの・良いもの・素敵なもの」と思ってもらうにはどうしたら良いだろうか、と考え、発言や行動に移すようにしましょう。
余計な一言、はトラブルを招くだけで、得られるものがあるとすれば、「失敗」という経験だけです。本当に相手に受けれてもらいたい物事ほど、「素敵な提案」として相手に提示するようにしましょう。
ルールやマナーは、「守ってもらう」ことが最終目標です。その目標のためには、自分が感じる怒りは捨てて、相手がどうすれば守ってくれるかだけを考えるようにしましょう。