お金にならない労働には価値がないとされる社会

働かない なぜ ダメ 社会問題
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お金に換算できない労働が社会を支えてきた

 

使えるお金を稼がない労働者は下に見られる社会

 

働かないことに対する世間の目が、厳しくなってきています。

 

経済成長が鈍化し、支えなければならない高齢者が増えていく日本では、男女平等の名の下に、これからはもっと、働け、働け、と言われるようになるでしょう。

 

そんな時に、「働かないこと」を良しとする発言をしようものなら、袋だたきに合うかも知れません。

 

しかし、働くというのは、何を基準にしているのでしょうか。

 

現代では、働いている人は、日本円、または日本円に換金することのできる賃金を貰っている人のことを指すように思います。

 

実際、主婦(夫)の仕事が、時給に換算するといくら、年収に換算するといくら、という話題が上がるのも、働いているのだからお金に換算できなくてはおかしい、という、労働に対する評価=お金という構図が成り立っている証拠です。

 

しかし、こうした、お金に換算したとすればいくらになる、という、実体としてお金を受け取っていない人に対する世間の目は、働かない人に対するものとは違うが、しかし、厳しいものになってきています。

労働の定義は時代によって違う

 

お金に換算できるものにしか価値がないという考えは、比較的新しいものです。

 

資本主義が広まるまでの世界では、個人単位で何かを生み出していなければ、働いていないとみなされる世界ではありませんでした。

 

子供が多く、家族の単位が大きかった時代には、比較的大きな子供が下の子のお世話をしたり、親も、母親だから家で子供の世話をするというのではなく、外で農作業や自営の店を手伝ったりしていました。

 

少し時代が進み、専業主婦という考えが一般的になると、妻は子育てに家事に忙しくし、夫は、自営ではなく、企業という新しくできた組織に勤めるようになりました。

 

今ある仕事のほとんどは、こうした新たな産業と文明から生まれたものであり、かつて人々が当たり前に仕事として行ってきた、生きる為に必須のこと、とは異なっています。

 

農作物をつくる、魚を採る、肉を育てる。こうした、食べるに直結したこと。綿を育てる、蚕を育てる、そして糸を紡いで布にする。こうした、衣に関すること。そして、住居や移動手段に関わること。

 

そうした、ベーシックな事から離れた仕事が増えるようになり、いくつもの業種が密接に関係しながら成り立つ仕事が広がるようになると、それが「本当に必要なのか」分からない仕事まで出てくるようにもなりました。

 

世の中にあるお金になる仕事は全てが必要な仕事なのか

 

この世にあるということは、世間が、社会が必要としているのだから存在するのであり、つまり、それは世の中に必要な仕事なのだ。という人がいますが、果たしてそうでしょうか。

 

例えば、世の中が必要とするのだから、「殺人請負人」がいて良いのだということになるでしょうか。

 

世の中が必要とするのだから、「人身売買」はあって当たり前なのでしょうか。

 

この世には、必要な仕事どころか、ある人にとっては、存在して欲しくない仕事というのもあります。

 

忌み嫌われるような仕事をしている人は、仕事をしていない人より害がある場合もあるでしょう。

 

しかし、今の世界では、「お金を稼いでいるのならどんな仕事でも良い」という風潮もあります。

 

誰かの意志が無視されて、誰かが苦しい思いをしていても、お金を稼げる方が偉いという考えを目の当たりにする場面は、ごく普通に生きていても当たり前にあります。

 

会社に勤めている人の中には、ブラック企業と呼ばれる倫理のない会社で働いている人もいるでしょう。働く人の健康や安全を考えるよりも、会社の出す利益と、資本家のお財布に入るお金の方が大切だという企業に勤めていると、労働は、奴隷労働のようになっていきます。

 

お金を稼ぐ人、資本を増やす人が偉い。その人たちの言うことは聞かなくてはならない。

 

そうした考えが一般的になってしまうと、「奴隷制度」という名前は付かなくとも、実体はそれと同じという社会が出来上がってしまいます。

 

労働をするともらえるお金はどこからやってくるのか

 

労働をすると、お金をもらうことができます。しかしその、お金は一体どこから来ているのでしょうか。

 

各国の中央銀行がお金を刷って、市場に出回らせているお金というのは、どのようにして刷られることになるのでしょう。

 

誰かが、企業を作って働こうと思った時、企業を作るために銀行にお金を借りにいくとします。すると、銀行は、お金を貸し出す代わりに、従業員の給料や、もうけたお金については、自分の銀行に預けてくれよ、と言います。

 

すると、銀行は、お金を貸すことでお金が減るはずなのに、お金を返してもらわなくても、企業が動き出した時点から、お金が入ってくるようになります。

 

こうして、銀行を通じて取引されるモノ、コト、に対しては、お金に換算できる価値が生まれるのです。

 

誰かの動きが、モノになり、コトになると、必ず銀行を経由するので、その分中央銀行はお金を刷っていくことになります。

 

金融の仕組みはもっと複雑ですが、こうしたお金になると世間が決めることは、労働と呼ばれ、確かな金銭的価値を持つようになります。

 

これを、家事労働に当てはめてみるとどうなるでしょうか。

 

家事を行うのに、わざわざ銀行に対してお金の貸し出しを求めたり、誰かに対してお金の支払いをして(もしかしたらお小遣いというシステムはあるかも知れませんが)、そのお金を銀行に預けたりはしないでしょう。

 

これは、銀行を経由するお金の動きに主婦(夫)労働が加わっていないために、はっきりと労働であるとは誰もが認めないからです。

 

かつては、当たり前に労働にカウントされていた、食事づくり、風呂焚き、家の整備、町内の付き合い、国や自治体へ提出する書類の整備。そうした事柄は、いつの間にか、労働からは外され、お金にならない雑務のように取り扱われるようになっています。こうして、お金にならないことは軽視されるようになり、お金がないと人が動かないという社会が出来上がっていきます。

 

ある時代においては、これらのことこそが日常で最も重要なこととして扱われ、労働としてカウントされていたのに、今の時代では、これらは「お金を生まない」という点で、劣るものとして見られているのです。

 

家を大事に、生活を大事にと訴えても、ほとんど誰も、働くことをやめ、お金を稼ぐことをすっかり放棄して、家のことだけをするという自給自足の生活に戻ろうとはしないでしょう。

 

自給自足で生きようとしたり、少ないお金で暮らしを立てようとすると、そうした人は奇異な人として見られ、メディアにまで取り上げられるほどに珍しい存在としてみなされているのが、今の世の中です。

 

お金を生まない労働にしかできないこともある

 

ボランティアのように、お金を介在させないことが意味を持つ活動も多々あります。

 

その中には家事労働も含まれますが、「当たり前」や「助け合い」の精神というのは、お金に換算できるものではありません。

 

かつては、助け合うことは当たり前で、共同体は作業の全てを分担して行っていました。

 

ゴミの捨て方、水の分配、地域の整備などは共同体の中で決定しなければなりません。こうした共同体ならではの非効率さや、新参者へのいじめなどの苦労や苦悩はもちろんありますが、共同体が無償で行う労働により保ってきた地域社会の良さもあったことは確かです。

 

お金を生むか、生まないかで区別することのない、労働に優劣を付けない考え方というのは、こうした無償の労働が当たり前に存在する社会でないと存在できません。

 

しかし、今のようにどんな物でも、どんな事でもお金に換算できる社会になってしまうと、最終的な決着は全てがお金になってしまい、無償の労働への評価が極端に低くなってしまうのです。

 

家事労働も外部に委託するようになり、かつては「当たり前」としてこなしてきたことのほとんどを、お金のある人間は外部に委託できるようになり、お金持ちであれば、自分で歩くことも、歯を磨くこともしないでも生きていけるようになります。

 

しかし、いくら何でもそこまでお金に支配されたくはない、と考える人も出て来ます。それは、お金を得ることと引き替えに、何かを失っているという意識があるからです。

 

必要物資をお金で買わずに自分で手に入れる自給自足の生活の方が大変で、効率が悪い今の社会では、お金を稼がずに生きるというのは、とても大変なことです。

 

しかし、お金にばかり固執してしまうと、失ってしまうものがあるとすれば、精神世界の充実や、利害関係のない場所での助け合いの精神、共同体という、人をみんな平等で、同じ立場にあると見る考え方です。

 

本当に小さな子供の頃の友人関係には、お金が介在しないことがほとんどで、その頃には、損得のない純粋な関係を築けます。

 

けれど、大人になるにつれ、複雑に絡み合う損得の感情や、金銭面のトラブルが増えるようになるのは、無意識に、物事ややり取りをお金に換算するくせがつくからではないでしょうか。

 

しかし、ここまで人々が、「働かないこと」に拒絶反応を示すようになると、お金にならない事をしている人が、全く無関係の相手にまで責められるようになります。

 

不平等と格差の拡大は差別社会を作っていく

 

たとえば、何かで大きくもうけた人がいて、その資産家がボランティア活動に毎日熱心なことをとやかく言う人はいないでしょう。

 

なぜなら、その人はお金を持っているからです。

 

しかし、同じように毎日熱心にボランティア活動をする人(ここでいうボランティアというのは、金銭の介在しない活動のこと)が、お金のない人だったとしたら、まず働きなさい、と周りの人間は言うのではないでしょうか。

 

この差は何なのでしょう。

 

お金がないと、いずれ困るかも知れないですよ、という親切心でしょうか。

 

それとも、お金がない分を、自分達が負担することになるのだという、金銭を生まないという無責任を責めているのでしょうか。

 

いずれにしても、最低限自分の生活、または、家族のいる人は家族の生活を保障してから、そうした活動をするように、と促されることになります。

 

つまり、無償労働は、割り当てられていると思われる分の有償労働を終えてから、やってくれと、思われているのです。

 

一人一人に割り当てられているとされる有償労働

 

生産人口の年齢に達したら、社会に出て、有償労働をするように求められます。

 

それを、「当たり前」で片付けてしまうこともできますが、しかし、いつからこうした、無意識の割り当て分が存在するようになったのでしょうか。

 

共同体が小さな時や、経済や政治の規模が小さかった時には、個人が、共同体の全てを認識することができました。その上で、得意なこと、不得意なことに応じて労働の割り当てが行われていました。

 

しかし、現代のように、世界にまで広がる大きな経済世界と、政治世界、人のつながりができると、誰か個人が全てを把握することは実質不可能となり、その代わりに、システムの構築が進むようになります。

 

貨幣も、銀行も、企業も、そうした変化とともに出現し、発展していったのですが、そうした中で、格差も広がり始めました。(生活水準の底上げという意味では、多くの人が豊かにはなっています)

 

貧乏に生まれても、努力次第でお金持ちになれる、という人もいるでしょうが、本当にこの世界が平等で、正当だと思って生きている人はいないでしょう。

 

例えば、同じ時間必死になって労働したとしても、もらえる金銭は人によって全く違います。

 

しかし今は、資本家が最も儲かるように世界が成り立っています。そして、こうした権利と権力のある資本家や政治家たちは、今在る世界の成功者ですから、今の世界を悪く言うことはありません。

 

力のある人々や、宣伝効果の高い人々が、どんどんお金を作るための労働を称賛し、世界の人々の考え方を変えていくと、無償労働はどんどん端へと追いやられ、価値のないものとして認識されるようになります。

 

こうなると、お金を払ってそれらを有償労働に変えれば良いという動きが起こり、ほとんど全ての事柄がお金に換えられる世界に変わり、無償労働をして生活を支えることは、間違っていることのように扱われるようになっていくのです。

 

無償労働が素晴らしいとは限らないでしょう。場合によっては、ただ働きたくないという場合もあるでしょうし、無償労働と、有償労働を兼業する方が良い場合もあります。

 

しかし、金銭にならないものは全てが価値のないもの、と考える人が増えるほどに、世の中の全てが金銭を介在しなければ成り立たないようになり、友情も、愛情も、金銭の交換なしには成り立たなくなっていきます。

 

直接的には金銭を介在していないつもりでも、金銭負担の割合で相手との格差を生み出したり、社会で働いて得たお金で上下関係を決めるなど、こうした、人を評価するためのランク付けに大きく金銭が関わるようになっていることは、実感できるのではないでしょうか。

 

しかし、誰もが他人と関わりながら、今の世界のように電子メールが飛び交い、電話があちこちで鳴るような早いスピードで生きていける訳ではないし、経済が主体の世界に誰もが溶け込まなければならない訳ではありません。

 

ただ、電気がなければ、ガスがなければ生きられない事は確かで、今の人々に、かつてのような自給自足の生活を求めることはできません。

 

それでも、現代文明の人々にも、休息や、適切な意味での無償労働の時間が必要なのは、それは、無償労働が、誰にも搾取されない、根本的な生きる力を養うための時間だからです。

 

無償労働は、奴隷労働のように誰かに利用されてはいけません。無償労働はあくまで、自発的に、自分の意志で行う必要のあるものです。もちろん、搾取されたり、奴隷のように使われるということは、有償であっても、ダメな事ですが。

 

歯を磨くことも、掃除することも、買いものをすることも、ゴミを捨てることも、それは、生活のために絶対に必要な労働であり、それをもし誰かが代わってくれているのだとしたら、その相手を尊敬し、その相手に感謝しなくてはなりません。

 

人は、有償労働と、無償労働と、余暇とをバランス良く持って生きる必要があります。

 

働かないことが偉いのでも、働くことが偉いのでもなく、有償労働と無償労働のバランスについては、例えば個人が、または家族などの共同体が自由に決められることであるべきで、誰かが押しつけるべきことでも、評価すべきことでもありません。

 

国や世界という、これだけ大きな共同体では、権力や権威、システムなしには立ちゆかない事は確かです。

 

しかし、それを個人や家族、友人たちとの関係にまで波及させてしまうと、もうそこには、私たちが信じたいと願っている、愛という、形而上のものたちの世界は存在しなくなります。全てがお金に換算でき、システム化できなければいけない社会になるのです。

 

働かないこと、それも、金銭に換算できない労働に対する拒否反応が拡大すればするほどに、そうした愛のある世界というのは消えていきます。

 

お金で評価をすることは大切です。しかし、実際にお金にならないからと、お金を生まないものを軽視することは、人間の生きる為に必要な営みの多くを否定することになるのです。

 

おとぎ話の世界では、信じるものがいなくなると、妖精達が消えてしまいます。愛や信じる心といった、形にすることのできない感覚も、人々が忘れてしまった結果、完全に忘れ去られてしまう日が来てしまうかも知れません。

 

最後に、注意点として追加しておきますが、お金にならない労働を称賛し、無償労働を搾取しようとする人々が一定数います。

 

こうした搾取は絶対に認められるべきではなく、「うまくいいくるめられて」無償労働が強いられるような社会は、お金に換算される社会以上に悪意に満ちた世界です。

 

無償労働と、有償労働と余暇のバランスがおかしくなってきているという話ですので、その点は誤解することのないように注意していただきたいと思います。

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