何でも悪く取る・わざとやったと考える人の心理と対処法

全部悪意に取る なぜ  対人関係
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善意を悪意に、過失は故意に受け取る事は誰にでもある

自分以外は全て敵だと思っている人には好意は通じない

褒め言葉を素直に受け取ってくれない人や、好意と思ってした行動にけちをつけられ、嫌な思いをしたことはありませんか?

 

こちらが善意のつもりでしたことや、少しのミスや失敗を〝わざとやった〟のだと誤解されて怒られるようなことがあると、「なぜこの人はいちいち全てを悪い方に受け取るのだろう?」と首を傾げ、この人とは仲良くしたくないと思うようになるでしょう。

 

道を歩いていて人とぶつかってしまった時に、混んでいるから仕方がないと思う人がいる一方で、その場で「何ぶつかってんだよ!」と怒り出す人がいますが、あおり運転や、相手を威嚇しながら歩く人々など、他者に対して常に悪意を感じている人の場合には、周りにいる人々は誰もが敵であると思い込む敵意帰属バイアスがはたらいている可能性が高いです。

 

敵意帰属バイアスとは、周囲の人間を敵だと判断し、敵であると判断した相手の行いは、過失や善意に見えても悪意に違いないと捉える心理です。ただ、そこまで極端なケースではなくても、相手の好意を素直に受け止められない人はいます。

全てを悪意に取る人は、失敗を恐れる素直に謝れない人に多い

物事を悪い方に取る人の多くは、失敗を恐れる人です。失敗して誰かに非難されることが怖い人ほど、言い訳をしたり、相手に攻撃の隙を与えないように武装していくようになり、何かを言われる前に先手を打って相手を困らせるような発言や行動をして、相手に何もさせないようにしようと考えます。

 

こうした人達が失敗を必要以上に恐れるのは、自分に対する評価が高いからでもあります。自己評価が高くプライドが高い人は、否定されることを嫌います。例えばそれが、提案や意見であったとしても、自分に同意しない人間は全て自分を否定していると捉えるような人は、自分中心に物事が回っていると考えている人です。

 

自分中心に物事が回ると考えるようになる原因は、育ってきた環境や、人間関係を作る時にどんな経験をしたかが関係しているため、1つに特定することは難しいですが、ゆっくりと、積み重ねるようにして自己中心的に考える性質が身についていきます。

 

そして、自己評価が高い状態で膠着し、他人の意見を聞けなくななると、他人の好意による行動や、ちょっとした過失に対して、異常なまでに悪く取るようになります。さらに、こうした自己評価が高い人はいつも、自己評価に対して、他者がそれに見合った評価をしてくれないと感じながら生きていきます。

 

自己評価が高いのなら、褒め言葉なら素直に受け取るのではないかと思いますが、褒め言葉にすら皮肉や文句を返す人間がいます。

 

他人に悪意があると常に疑っている人は、褒め言葉自体は嬉しいと感じていても、それが実は悪意のある言葉であった場合、ぬか喜びという事になる可能性があると思っています。そうならないために、皮肉で返し、相手の真意を確かめようとするのです。「でもそれって裏を返せばこういうこと?」と、否定するのは、もしも相手の言葉に悪意があったらと疑っているからです。

 

また、自分の思うような褒め言葉でない場合には、怒り出す人もいます。心から相手を褒めていたとしても、相手が、「悪意のある褒め言葉リスト」のようなものを心の中に持っていて、それに似た言葉が出てくると、絶対に相手は悪意があって褒めているのだ、と確信し、相手の真意を確かめる前に怒り出すのです。

 

自己中心的で、他者の気持ちをくみ取る能力がない人は、他者がどう感じて、なぜ褒めてくれたのかという、他人の事にまで気が回りません。

 

そのため、何を聞いても、自分の評価基準に当てはめてしか考えられず、さらに、その評価基準が自己中心的な物であるため、周りの人間がどんなに注意して言葉を選んでも、正解を探すのは難しくなります。

 

自分が聞きたい言葉しか聞きたくない、自分の思う通りに動かない人間はみんな嫌い。

 

こうした自己中心的な人は、文句を言われる前に、自分から文句を言う、攻撃される前に自分から攻撃する習慣が身につくようになり、いつしか全ての人間が敵で、褒め言葉にも裏があるに違いないと思うようになります。

 

こうした極端な思考に偏るようになった人は、完全に自分に従順な人間にしか興味が無くなります。さらに、相手が完全に自分に従い、何にでも、「はい、はい」と肯定して従う人間だとしても、言葉使いや、態度が少しでも気に入らなければ、相手を罵倒するようになります。

 

自己中心的な物の考え方は、それが酷くなるほどに、他人のいっさいを受け入れられなくなるのです。

誰にでも、極端ではないものの悪意を疑う心はある

全てを悪意に取るような人は極端なケースではありますが、多かれ少なかれ、人の好意を悪意に取ってしまう事は誰にでもあり得ます。

 

信じて人に裏切られる経験が重なったり、褒められすぎたり、色々と上手くいかずに調子が悪い時には、誰でも他者の言葉が素直に受け止められなくなることはあるはずです。

 

素直に受け止められずに反発して、後になって八つ当たりをしてしまったと後悔したり、褒め言葉を素直に受け止めれば良かったと思うこともあるでしょう。

 

悪意があるかどうかを知るには、相手の言動や行動が、好意なのか悪意なのかを見極める必要がありますが、悪意が隠れているかどうかは、そこに「相手を傷つけよう」という意志がはたらいているかに左右されます。

 

悪意がある人間は、相手が傷付くことで満足したり、相手が苦しむことで安心します。

 

自分が傷付いたり、苦しんでいる姿を見て相手が喜んだり、安心したり、納得する姿を見たら、その相手には悪意があるということです。反対に、普段から仲良くしているような安心できる相手であれば、たまたま言葉がひっかかったとしても、相手がわざわざ自分を傷つけようとするはずはないと考えられれば、相手の言動や行動を疑う必要はありません。

 

人を信じすぎれば、騙され、持っている物を奪われたり、辛い思いをさせられたりすることもあるでしょう。そのため、ある程度は人を疑うことも必要です。しかし、何にでも悪意があると思うようになると、今度は信じられるものがなくなってしまい、かえって息苦しく、生き辛くなってしまいます。

 

お金や命といった、自分が所有している権利に関するものについては、なるべくガードを硬くして、「騙されても、裏切られてもかなわない」と思える相手や、悪い事が起こった時には保証をしてくれる相手しか信頼してはいけません。なぜなら、裏切られたと思った時には、取り返しのつかないことになっている可能性が高いからです。

 

しかし、言葉の選び方、行動の選択について「悪意があるんじゃないか」と感じるけれど、お金や命を奪われるようなことに繋がらない場合には、心の中で裏があるかもしれないと疑ったとしても、態度や言葉には出さずに人と接するようにしましょう。

悪意ある理不尽な好意にに対しては、かしこい対処法を選ぼう

圧倒的に不平等な扱いや、理不尽な行いには悪意を感じる事があるでしょう。また、相手の行き過ぎた悪意や、善意を悪意に取る態度に対して、どうにかしたいと思うこともあるでしょう。

 

他の人と比べて自分だけ酷い扱いを受けている場合や、特定のグループだけひいきされているという場合には、それを行う側に悪意があります。

 

ところで、理不尽な行為を全くしない人がいる一方で、明らかな差別やひいきを簡単に行うことができる人がいるのはなぜでしょう?

 

これには、認知的不協和が関係しています。認知的不協和というのは、自分の中に矛盾を抱えることを許さない心理状態です。

 

例えば、自分が信じていた人に裏切られたとします。しかし、裏切られたことを知って、それを素直に受け入れるには痛みが伴います。そのため、裏切られた人は、どうしても裏切られたということを信じず、裏切った側には、特別な事情があったのだと思うようになることがあります。認知的不協和(=矛盾)が嫌な人や、矛盾を抱えることに抵抗を感じる人は、事実ではなく、都合の良い物語を作りはじめます。

 

こうした、認知的不協和が起こらないように無意識にしている人は、どんな出来事にも矛盾を解消する完璧な言い訳を考えるくせをつけます。

 

例えば、誰かをひいきしている場合、ひいきされている人には他者と区別されるだけの特別な理由があると考えるようになります。それが全く正当な理由じゃないとしても、髪の色が黒いからであったり、背が高いからであったり、そうした正当ではない理由で人を差別することを、正当化します。

 

理不尽なことを平気で行える人というのは、自分の中の矛盾を解消する術を持っている人です。明らかに間違った行動でも、正当化できてしまうため、それに対抗するには、相手の根本的な考え方まで直さなくてはなりません。

 

心の奥深くにまで入り込んだ考え方を変えることは難しいものです。そのため、相手の考え方そのもを変えるより、相手の考えに矛盾しない形で、相手の行動や言動を変えるように促すことが、最善の策となります。

 

あるグループだけをひいきする人に、「間違っているから、正してください」と頼んでも、相手にとっては間違っていないので正されることはありません。外部の評価によって、間違いを正すようになる場合もありますが、その場合には、表面的で一時的な場合であったり、そうさせるように仕向けた〝間違った人間〟を恨むようになる場合もあります。

 

そのため、真っ正面から向かうのではなく、相手が評価したくなるように、相手が喜ぶことを積極的に行うのも、一つの手段です。北風と太陽の話のように、正しさを訴え続けるより、太陽のように熱で、相手にとって正しいとされる行為で相手に自然とこちらを評価するように人を動かすことができると、それはとても理想的な形です。

 

相手の喜ぶ話をできるようにする、相手が正しい行いをしたくなるように相手を褒めながら誘導するなど、高い技術が必要にはなりますが、相手に合わせながら、相手の言動や行動を変えるのが、最も安全な方法と言えるでしょう。

 

悪意に悪意をぶつけることは、物事を悪い方向へ運んでしまう可能性が高いやり方です。自分の方が言葉が立つから喧嘩に勝てる自信がある、暴力に発展しても強いから勝てる自信があるといった場合にも、かしこいやり方ではありません。なぜなら、例え勝っても相手の恨みを買うことになり、ますます面倒なことになるかも知れないからです。

圧倒的な悪意を持っている人からは逃げる以外の方法はない

人を疑うことや、言動や行為を悪く受け取る事の全てが悪い訳ではありません。自己防衛本能としては必要な能力です。しかし、悪意を疑うことが行き過ぎると、自分自身が悪意ある人間になってしまします。

 

そして、悪意ある人間になってしまうと、平気で理不尽なことを行えるような心理状態に陥り、取り返しのつかない問題を起こしてしまうかも知れません。

 

何でも悪意に取る人は、既に悪意に侵されている人であり、真っ直ぐに相手へ訴えかけても言葉は届かないでしょう。あまりに酷い状況にある相手とは関わらないのが一番ですが、ある程度話が通じる相手であれば、相手が満足する提案をすることで、相手を動かすことはできます。

 

どちらも得している、と思わせるように、相手を説得できるのが一番良い方法ですが、話が通じない相手や、暴力が先行する相手からは、逃げる以外の選択肢はありません。危ない相手と判断したら、なるべく早く逃げるようにしましょう。

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