「周りのせい」にする主体性のない人生が損な理由と「責任感」を育てる方法

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受け身で「日和見」な人生が損な理由と責任感と主体性の育て方

「周りのせい」「環境のせい」と考える人は「受け身」で生きている

上手く行かないことがあると、つい環境や周囲の人の責任にしてしまうという人は、人生が受け身になっているせいで大きく損をする可能性がある人です。

 

「自分じゃありません」「命令されてやりました」「〇〇って言われたから」、と、何かトラブルが起こる度に周囲の誰かや環境のせいにしてしまうのは、「自分の責任で、自分の判断で生きている」という意識が低いからです。

 

やってしまったことを周囲の人や環境のせいにする他に、「やれなかったこと」を、周りの責任にする人も、受け身で生きている証拠です。「時間がなさすぎる」、「音がうるさい」、「〇〇のせいで集中できない」といった言葉がつい口を付いて出るという人も、人生の責任が自分にあるという感覚が薄いと言えます。

 

例えば、窓の外で工事が始まったせいで、あまりにもうるさくて集中できないといった場合に、主体性を持って生きている人は、図書館やカフェに移動する、耳栓をするなどして状況を改善しようとします。一方で、主体性のない人ほど、自分の失敗や物事がうまくいかない原因を根本的に取り除く努力や、別のルートでの解決方法を探ろうとはせずに、「うるさいから何もできない」と言い続けます。

 

主体性のない受け身な人で居続けると、いつかは、常に誰かが自分のために何とかしてくれるのを待つ人になってしまいます。

 

しかし、ここまで極端でなくとも、多くの人に主体性のなさに繋がる「受け身」の性質は備わっています。

受け身で生きることは世渡りのスキル。ただ、いつでも受け身ではいけない

社会の仕組みの中に溶け込もうと努力する場合、自然に「受け身」にならざるを得ない面があります。学校では先生や規律に従うことで平穏な日々が過ごせることから、受け身になります。職場では上司や規則に従うことで、地域社会でも目上の人や慣習に従うことで、平穏に暮らせるために受け身になるでしょう。

 

こうした、生きるための「技術」の一つである「権威者へ従う行動」や、「規律・規則を守る行動」は、ある程度までは生きるのに重要なスキルであるため、とても重要です。しかし、こうした受け身の姿勢は、行き過ぎれば人から主体性を奪い、自分で考えずにただ言われたことに従う人を生み出していきます。

 

トラブルを起こさずに生き残る術として、周囲に従うことや規律を守ることは一定程度大切です。しかし、習慣や文化が世代で変わるように、法律も時代を経て変わるように、「当たり前なこと」は常に変わっていきます。

 

前は良いと言われていたものが悪いものになったり、前は許容されていたものが拒絶されるようになるのは、いつの時代にも起こることです。

 

そうやって世の中が変わった時に、「受け身で主体性がない人」が、こうした変化に対応できるかというと、それは難しいことです。

 

受け身な人は、「最も優勢だった考えやルール」に従う傾向があり、そこから外れてしまうと、途端に対応できなくなります。

 

逆に、劇的なほどに「優勢なルール」が出来上がると、すぐにそれに従うのも、主体性のない人々です。

 

腸内細菌では、善玉菌と悪玉菌より圧倒的に多いのが日和見菌であり、こうした日和見菌は悪玉にも善玉にも変化しますが、悪玉が増えると悪玉に染まりやすくなります。人の行動も同じで、善良な人が多く、一般的に「善」とされるものが何かを判断できる力を持っている人の影響力があるうちには、日和見の人々も善良な人と同じ振る舞いをしますが、悪の考えを持った人が優勢になると、つい昨日まで善良な人であった日和見の人は、途端に悪人に変わります。

 

心から善良な人は、こうした突然の変わり身が理解できないと思います。しかし、受け身で主体性のない人にとっては、善であるか、悪であるかは重要ではなく、優勢な側に付く事が大切なので、こうした行動を取ることができます。

 

虐殺、紛争、集団心理による暴動の背景にも、こうした日和見の人々の変わり身が大きく影響しています。

 

そして、「自分の意志で選んで行動していない」日和見の人々は、日々が過ぎて自分が劣勢になったことを知ると、「自分は命令されたからやっただけ」「あそこにいる人は誰でもこうしていた」と、自分に責任がないことを訴えるようになります。

「やれ」っていうからやったのにという、他責の思考はとても危険

「この人には責任感がない」、と感じる人の多くは、日和見な人である場合が多いはずです。なぜなら、彼らは優勢な側に従っているだけで、「自分で判断して選んだ訳じゃないから、自分には取るべき責任がない」と思っているからです。

 

会社が言うからやった。先生が言うからやった。親が言うからやった。

 

こうやって、誰かがそうしろと言ったからやったのであり、その行動の責任は自分にはないと感じている受け身な人は、例えばその行動が人の尊厳や命に関わる出来事であっても、責任を取ることはありません。

 

人の命がかかっている問題に、「自分が正しいから責任を取らない」と主張するタイプの人は、「完全に話が通じない人」であり、こうした人は、日和見の人ではなく、独裁者タイプです。

 

一方で、「取るべき責任がそもそも存在しないから責任を取らない」という人が、日和見タイプです。彼らは、会話はできるし、話が通じているように感じるのに、打っても打っても響かない人です。

 

完全に話が通じない人というのは、サイコパスと呼ばれるような根本が全くことなる人であり、こうした人々を変えることはほとんど不可能に近いものです。ですが、話はできるけど、相手を納得させるのが難しい人は、そこに主体性がないから責任感を持てない日和見の人々なので、主体性を感じるるようになれば、責任意識も持てる人たちです。

 

いじめの首謀者がいても、いじめに加担するその他の人々がいなければ集団いじめは発生しません。独裁政治が暴走しても、迫害行為に加担する人々がいなければ大量虐殺は起こりません。誰かが暴れだしたからといって、自分も一緒になって暴れる人がいなければ集団は暴徒になりません。しかし、こうしたことは、実際の歴史の中で、日常の中で起こっています。

 

命令を下した人、最初にはじめた人に責任があって、自分にはない。自分は言われたからやっただけだと感じる日和見の人々には、「自分の意見を持つ」意識がごっそりと抜けているため、流されることが当たり前になってしまい、状況に応じて「いいように使われる駒」になりやすくなります。

 

人を動かすことに長けている人で、悪意のある人は、こうした日和見の人々をターゲットにします。

 

つまり、主体性のない人として生きていると、知らないうちに、誰かにとって都合の良い駒にされやすく、気がついたら、「自分は悪くない」と思っているのに、悪人として裁かれているということにもなりかねないのです。

「誰かが何かをしてくれる」のを待っている受け身な人生をやめるには

人は、「一貫性」を持ちたがる傾向があると言われています。

 

そのため、「自分はこういうタイプだ」と公言してしまうと、それに沿った行動をしなくてはいけないと思い込むようになり、自分を縛るようになります。黒い服が好きと公言すると、色の付いた服が着づらくなったり、自分は不良タイプだと思いこむと、真面目な行動をするのをためらうようになります。

 

同じように、人は、意見にも一貫性を持ちたがります。

 

一度同意した意見であれば、多少の違和感を持っても貫こうとするのも、一貫性を持ちたいという傾向があるからです。

 

Aという政党を支持している人がいるとして、A政党が自分とは意見が異なる政策を打ち出した場合、「自分の意見に基づいて」A政党を支持していた人は、自分の意見に近い政党をもう一度探そうとします。なぜなら、自分の意見に基づいて支持を決めることに一貫性を見出しているからです。

 

一方で、A政党が優勢だから、頼まれたからといった理由で支持している人は、自分の意見とは異なる政策をA政党が打ち出したところで、支持を取り下げることはほとんどありません。周囲の意見に合わせることに一貫性を見出しているからです。

 

どこに一貫性を持つかによって、人の判断は変わります。

 

親の意見に合わせる、特定の上司の意見に合わせる、好きな芸能人の意見に合わせる。こうやって、誰かの意見に合わせることを徹底すると判断した人は、悪にも簡単に染まります。自分が意見を合わせると決めた相手が悪に染まれば、自分も同じように染まるからです。

 

ですが、「誰かに合わせる」のではなく、自分がその時に良いと思う意見に合わせる、誰かが決めたことでも、自分がやったことは自分の責任と捉えることができるようになると、簡単には悪に染まらない、自分で責任を持つことができる人になります。

行動や言動の責任が「常に自分にある」という意識を持つようにする

自分で「やる」と決めたことでなければ責任感は生じません。

 

自分のせいじゃないのにひどい目に遭った、と発言している人の中には、客観的に見ると、自分でひどい目に遭いに行ったんじゃないか、と思えるような場合もあるでしょう。

 

行かなくても良い危険な場所にわざわざ行く。犯罪に加担するような行為を頼まれているのに、深く考えずにやってしまう。明らかに悪人と思われる人と付き合っている、といった場合です。

 

しかし、自分が考えて自分で選んで行動したとしっかり分かっている人でなければ、「自分は悪くない」と思うのは当然のことです。

 

罪の意識は、自分の判断と行動が、自分のせいで明らかに間違っていたという反省が無ければ生まれないからです。そのため、「自分のせい」と感じられない人にいくら反省を求めても、「間違ったリーダーを選んだ自分が悪い」という反省はできても、「自分の行動に問題がある」という反省はできないでしょう。

 

けれど、それがたとえ「言われてやっただけ」の行為でも、「やった」行為は消せません。そのため、結果がもたらす被害は、自分に降りかかってきます。

 

さらに、自分で判断せず、自分の責任で行動しない人は、世の中が大きく変わる時には大きく被害を受けることになります。形勢が一気に変わる場面では、自分が付いている側が劣勢になることが多いからです。

 

多くの「被害者意識」を持ちやすい「受け身の人」は、時代に乗り遅れたり、置いて行かれたり、日々小さな不満を溜め込んで生きていることが多く、人生の責任を捨てたことで、かえって苦しい思いをして生きている場合もあります。

「責任」を自覚し、失敗や挫折の経験を積むことは人生のスキルアップになる

どんな意見を持っているかと尋ねられて、「?」となってしまう人や、「自分がからっぽだ」と感じている人の多くは、本当に自分がない訳ではありません。あくまで、主体性を育てていない人、自分を育てていない人です。

 

日和見の良いところは、その時に有力な人の下に付くことを選んだり、優勢な意見に傾くことで、自ら開拓していくエネルギーを消耗せずに済むことや、「はじめてのこと」に特有の挫折や失敗を味わう必要ないところです。

 

しかし、だからこそ「失敗」や「挫折」が与えてくれる経験値を得ることもできません。

 

失敗を繰り返すということは、成功するルートを見つける過程であり、挫折するということは、新たなアイデアを捻り出すヒントを積み重ねる過程です。それらを捨ててしまうということは、自分の力で成功したり、自分の力で満足する道を捨てることに繋がります

 

仕事でも、家庭でも、趣味でも、どんな事でも自分の意見を持って貫いて生きることが正しい訳ではありません。そこまでいくと当然疲れるし、相手の意見が耳に入らなくなる可能性があります。そういう意味では、自分が最も大切だと思うところ以外は「日和見」の姿勢も悪くないものです。

 

自分が一生に関わる大切なことほど主体性を大事にし、自分の一生にそこまで関わることではない場合には、相手に合わせて受け身になるという、バランスが大切です。

 

どんなことも、「自分に責任がある」と捉えられるようになると、準備を念入りにしたり、下調べをするように行動が変わっていきます。ただ、どうしても責任感が芽生えないという人、責任感がない人には、「ぞっとする」くらいの失敗や、挫折が必要です。

 

そのため、自分の子供が主体性がなくて困るという場合、部下が主体性が無くて困るという場合には、「自分のことは自分で責任を取るように」とだけ教え、後は手を出さずに見守る姿勢が必要です。そして、主体性のなさから大きな失敗をすることがあったら、その責任を自分で負ってもらうことが大切です。下手に手出しをして助けてはいけません。泣いたり、苦しい思いをすることがあっても、それを乗り越えなくては、主体性は目覚めないからです。

 

人は、「自分の責任」でやっている、と思えるようになると、努力の心が芽生え、物事をしっかりと自分の眼で見るようになります。

 

そして、「自分の責任」で物事が上手くいくと、心から嬉しいと感じる事ができ、日々が充実します。こうして自己責任の行動が、自分の糧、自分のスキルになっていくのです。

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