哲人ソクラテスを師とするプラトンとその生徒アリストテレスの思想
ソクラテスは、哲学することそのものを広めた人
ソクラテス(前470~前399)
紀元前450年頃には、アテナイ(現在のアテネ)はギリシア世界の文化の中心でした。
ただ、民主主義ができあがり、ソフィストたちが弁論術を教えるようになった頃には、生活に役立つ実践的な弁論術を考えることには意味があるとされていましたが、「私たちはどこから来たのか」といった哲学的な問いかけについては、議論の余地はなく、議論する必要のないものとみなされていました。
自然や宇宙に関する謎について、確かな答えを見つけることはできないと考える立場は、哲学では「懐疑主義」と呼ばれます。
この頃のソフィストたちは、存在することが確かだと分かる人間と社会との関わりについて議論をすることに集中してたので、正しいことは、時代や社会の文化が決めると考えていました。
しかし、そこに「世の中には絶対的な基準もある」ことを示したのがソクラテスです。
ソクラテスについては、プラトンの対話編の中に幾度も登場します。実際のソクラテスが何を発言していたかを知る事はできませんが、対話編の中に登場するソクラテスが、現在私たちが知ることのできるソクラテスです。
ソクラテスは、道行く人を捕まえては、問いを投げかけ、相手が堂々と答えた言葉がいかに間違っているかを自分自身で発見させました。ソクラテスの母親は産婆だったので、ソクラテスは自分が問いかけることで相手自身に物事を考えさせ、答えを自ら生ませる方法を産婆術に似たものだと考えていました。
ソクラテスは、自分自身は何も知らない無知な人間を演じて、相手に「答えを教えて欲しい」と尋ね、しかし、相手の答えに矛盾を見つけてはそれを指摘し続けるのです。
そのせいで、ソクラテスによって「恥をかいた」と感じた人はたくさんいました。さらに、死刑に反対し、権力者たちの行いについても抗議していたソクラテスは、「若者を堕落させたこと、神々を認めないこと」を罪として訴えられ、501人の陪審員による多数決により死刑宣告されることになります。
ソクラテスには、アテナイを離れて死刑を逃れる道もありましたが、それは選ばずに、自分のしていることを信じ、死刑を受け入れることで自らが背負っている使命をまっとうしました。
ソクラテスは、自分はソフィストなどではないと考えていたため、お金を取って人に教えるといった行為はしませんでした。ソクラテスは、知恵を愛しているからこそ、自分は無知だということを知っていて、「わたしは、自分が知らないというたった一つのことを知っている」という言葉を残しています。そして、お金のないソクラテスは、人に教えてもらう対価には、「称賛の言葉」を送るようにしているのだと言っています。
ソクラテスは、現実的な事柄や、政治に有効な弁論術を教えることではなく、「哲学をする」ことそのものを広めた人です。
ソクラテスの考える正義:良い行いを知っていて、悪いことと区別できるかが鍵
ソクラテスは、心の中には正しさを教える良心があり、何がよいことかを知っているひとはよいことを行うと考えていました。そして、正しい認識こそが正しい行いへと繋がり、悪い行いは、それが悪いということを知らないからこそ起こると考えていました。だからこそ、知ることこそが善悪や不正の区別を可能にすると考えました。
ソクラテスは、すでに知っている正しい行いをすることで、人は幸せになれると言います。
正しい事を知り、それを行動や言動に移すことで、人は幸せになれるということ、より良く生きられるということをソクラテスは伝えようとしました。権力者やお金持ちが創り出す偽物の正義と、心や経験で知る本当の正義を区別し、良く生きるべきと考えていたソクラテスは、人々に、よりよく生きて欲しいと願い続けていたのかも知れません。
プラトンは、イデア界の存在と、哲人王による理想国家を夢見た
プラトン(前427~347年)
唯一の本物の哲学者として尊敬していた師匠であるソクラテスが死刑宣告を受けた当時、プラトンは29歳でした。プラトンにとって、唯一で最大の哲学者であるソクラテスが死ななければならないという事実は、理想と現実との矛盾を考えさせる要因となります。
プラトンは、対話編として沢山の書物を残していますが、それは、プラトンが森の中に「アカデメイア」と呼ばれる対話による学びの場を開いたことにも起因しています。
ソクラテスは、不変の理性がこの世に存在すると考えていたため、変わらない正義の規範がこの世にはあると信じていましたが、プラトンは、これを心の問題だけでなく、自然を含む全ての現象について「永遠に変わらない本当の世界」が存在すると考えました。
その、永遠不変なものはイデアと呼ばれます。これは、人間や動植物を形作る設計図のようなものです。私たちが見て、触れる物は全て、時間が経てば形が変わってしまいますが、猫を見た時、それがどんな種類の猫であっても、千年前の猫であっても、「猫」と認識できるように、猫には何らかの「型」があると考えられます。今では、遺伝子と呼ばれる情報がこれらの型であるとされていますが、プラトンは、どんな物にも「型」があると考えていました。
そして、現実には存在しない永遠不変で完璧な、全ての物の原形である「型」の世界をイデア界と呼びました。私たちが現実に生きているのは「感覚界」であり、不完全で、変化しやすいものとされました。プラトンが考えたイデア界は、感覚では捉えられないとされています。
理性によってコントロールされた世界を理想とし、哲学者が国を治める世界を考えたプラトンは、たった1つの理想的な国家を想像したために、全体主義的(国に対する政治批判の思想を禁じる社会)であると反論する人々もいますが、プラトンが理想を掲げた背景には、真実を発言した者(ソクラテス)が殺されるような世の中であったという時代背景が現れていることには注意が必要です。
プラトンは、『国家』(正義について)の中で〝理想国〟という想像上の国家を構想します。
「正しい人は不正な人よりもほんとうに幸福かどうか」を考えた場合に、これまでの思想家たちが辿った過程(ギリシア哲学①、ギリシア哲学②)から、強い者が正義とされる世界では、不正こそが正義になることもある他、不正をはたらくことで得をする人がいる場合もあることが分かっていたため、プラトンは、現実の世界での正義を考えるのではなく、まずは言葉(ロゴス)の上で正義について考えようと試みました。
プラトンは、もしも言葉の上での正しい正義が成立する理想的な国というのがあるとすれば、それがどんな国になるのかというのを考え出しました。放置していてはダメになる部分については規制によって正さなくてはならないと考えたプラトンの思想は、結果的には過激なものとなっている部分もあります。(私有財産の禁止や、共同生活、子供は国が育てる、優生思想など)
ただ、プラトンは、理想国はあくまで理想の国家で有り、現実に存在しえないことも認めています。
プラトンは、法律の限界について、特に注意を促しました。人間はそれぞれ異なっていて、行動も異なっているため、どの問題についてもあらゆる場合に適用できる「単純一律な規則」を制定することは不可能であること、法律は一度定めると、どんな状況にも適用させようとする融通の利かない面があると考えました。
しかし、それでもおおざっぱな規則は必要であること、理想の国を創り出すことは不可能なことから、次善の策として、法律に基づく国造りを行うしかないとしました。プラトンは、晩年になってからシケリアにおいて国造りに携わりました。そこで創り上げようとした政治体制は、法の下による支配による次善の策の国でしたが、失敗に終わります。次善の策とされる法の支配による国造りであっても、難しいといという現実があるということです。
男女について、プラトンは、女性も同じように教育を受けることで、男性と全く同じ理性を持てると考え、女性の教育を進めるべきと考えていました。
『国家』は、ソクラテスと当時の哲学者やソフィストたちとの会話形式で成立しているため、プラトンが哲学者たちに語ってもらっている言葉こそがプラトンの思想だと考えられます。
アリストテレスは、国は個人に先立つとし、共同体としての国の理想の形を考えた
アリストテレス(前384~322年)
アリストテレスはマケドニア出身ですが、父親は高名な医者でした。プラトンが61歳の時にアカデメイアにやってたアリストテレスは、プラトンのイデアの考え方は自然界の変化や自然の過程を無視しているとし、感覚世界には完全なイデア界があるという考えを否定しました。
プラトンにとっての最高の現実とは、「イデア」でした。しかしアリストテレスにとっての最高の現実は「知覚できるもの」です。プラトンにとっては現実に生きている世界は影絵の世界のように、イデア界にある本物が映し出された世界でしたが、アリストテレスは、自然に存在していて私たちが知覚できるものが、頭の中でまとめられ、一般的な型や理想の形をつくっているだけと考えました。
理想を掲げてしまうと、イデアの世界に完全な全てのものが揃っているという結論で世界は終わってしまいます。アリストテレスは、人には物事を分類分けして整理して考える「理性」という性質があると考え、理性があるからこそあらゆるものを認識し、分類し、同一の形式のものを見分けられるとしました。
アリストテレスは、人が幸せになるためには、幸せを感じる要素である①快楽と満足、②自由と責任、③科学者や哲学者として生きること、の3つを、偏り無く持たなくてはならないとしています。
「中庸の徳」として、過ぎたもの、足りないものはどちらも良くないとし、ケチも浪費家も、臆病も勇気があり過ぎるのも、小食も過食も良くないとしました。アリストテレスは、中和の取れたバランスの良い世界を理想としていたと言えるでしょう。
アテナイの国家において外国人留学生の立場にあったアリストテレスは、アテナイの政治を中心に物事を考えていた訳ではないため、国家や政治についても、ソクラテスやプラトンとは考え方が異なる面がありました。
アリストテレスは、科学者的な分析を得意としていました。『政治学』の中で、「人間はポリス的動物である」と述べ、国家は自然に発生するもので、国家を持たないものや持とうとしないものは人間ではないと述べています。また、利害や物事の良し悪しを把握するための言葉(ロゴス)を持つのは人間だけであるとし、言葉による利害関係や良し悪しの把握こそが国家を創るとしました。
※ポリスとは、国家や共同体、社会として訳されることの多い言葉ですが、どれもアリストテレスの意図を完全に伝えることはできないとされています。
科学的な考え方を好むアリストテレスは、物質を分割すると個別究極的なアトム(原子)に辿り付くという過去にデモクリトスが考えた思想を採用し、そこから、アトムを個人に見立て、アトムが集まって物質を形成するように、人々は家族を、村を、そして国家という共同体を形成すると考えました。
アリストテレスは、国家は最高の共同体であると考え、共同体としては最終形態にあると考えました。国家は、人が必要と考えるから生まれ、そして人々がよりよい人生を送るために存在し続けると考え、国家は政治的、経済的な面だけでなく、文化や宗教、道徳的な面でも必要な共同体と考えていたことが分かります。
国家は全てに先立つと考えていたアリストテレスは、家族や村ができる前に、既に国家という構想は存在していると考えていました。物理的には、家族という単位ができて、はじめて村ができ、そこから国が成り立ちますが、家族という単位が存在する前から、国という概念は既にできあがっていると言います。
アリストテレスによる国政の分類
アリストテレスは、『政治学』の中で、国政を支配者の数と、支配の目的によって6種類に分類しました。支配の目的には、支配者の利益を考えるか、共同体に属する人々すべての利益(福利)を考えるかによって正しい治世と、間違った治世に分けています。また、支配者の数は、単独か、少数か、多数かの支配に分けています。
国政の分類①正しい単独者支配:「王制」 ②間違った単独者支配:「僭主独裁政治」
③正しい少数者支配「優秀な貴族による支配」 ④間違った少数者支配「寡頭制」
⑤正しい多数派支配「国政(共和制=国民による支配)」 ⑥間違った多数派支配「民主制」
アリストテレスとプラトンの民主制に対する考え方の違い
プラトンもアリストテレスも、民主制には「自由」が根幹にあるとしています。プラトンは、自由を「誰でもしたいと思うことをすることができること」とし、アリストテレスは自由を「交替で支配したりされたりすることと、人が好きなように暮らすこと」と述べていますが、この自由こそが、民主制をダメにする場合があります。
個人的な自由は、過度に乱用されれば独裁へと繋がります。クレイステネスの改革によって実現した民主制は、すでに100年以上の時を経ていたこともあり、当時のアテナイにおける民主制は既に理想とはほど遠い形になっていました。そのため、プラトンにとっても、アリストテレスにとっても、民主制が最低のものに見えていたのです。
アリストテレスにとっての最善の国政の形は、寡頭制と民主制の中間的な国政で、民主制の傾向が強い「国政」(共和制)でした。プラトンが既に『法律』の中で、自由を求める民主制と、専制的な支配である君主制の2つの国政は全ての国政の基になっていると考えていましたが、アリストテレスもこの考え方を継いでいたと言えるでしょう。
歴史家のポリュビオスは、ローマが長く栄えた理由は、民主制と君主制的要素が混合している政治体制にあったからと述べています。(執政官(コンスル)は君主制的な要素を持っていて、元老院は貴族制的要素を、民会は民主政的要素を持つからです。)ポリュビオスは、形態の違う国政は、全体としては循環しながら歴史を作っていると述べています。
奴隷が当たり前にいたアリストテレスが生きた時代に、アリストテレスは奴隷を「奴隷は生きた財産である」と考え、彼らには肉体的な労働力しかできないとし、彼らは家族に属する道具であるとみなしていました。また、女性については「不完全な男性」であるという考えを持ち、女性は劣ったものという見方をしていました。これについては、科学的な観察と理性をはたらかせるほどの女性についてのデータをアリストテレスは持っていなかったと考えられます。
現在も強い影響力を持つ3人の思想家から学べることは多い
プラトンが開いていたアカデメイアにおいては、プラトンのイデアについてを含め、批判的思考を養うための教育も行われていたのではないかと考えられており、アリストテレスがイデア論について否定したのは、そもそもプラトン自信がそれを促した面があるのではないかと言われています。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスについては、現在の思想にも色濃く影響を与え続けている人々です。誰か一人の考えが正しいとか、間違っているというのではなく、この考え方を採用するとこんな物の見方もできるという道具として、思考を借りてみると、自分自身の考える力を高めることができるでしょう。