プラトンに始まり、ホッブズ、ロック、ルソーが発展させた社会契約論
社会契約論と正義の起源はプラトンの思想からスタートしている
社会契約説について見る前に、法律も、ルールもない状態の世界を想像してみて下さい。
その状態のことを「自然状態」と呼びますが、自然の状態において、人はどのような振る舞いをするでしょうか。
魚が沢山とれる川があって、穏やかな風の流れる美しい丘があり、そこには川の氾濫を避けて安全に暮らせる場所があるとします。さらにそこが土地を耕せば食物がぐんぐん育つ豊かな大地だとしたら、まだ誰もルールを定めていない世界でそこを見つけた人たちは、自然とそこに住み着くようになるでしょう。
はじめのうちは、数家族で寄り集まって暮らしていたとします。ところが、北の大地が山火事で森を失い、南の大地で干ばつが起こると、その住みやすい土地に多くの人が流れ込んできます。
さて、いったい何が起こるでしょうか。
間違いなく争いが起こります。押しかけてきた全ての人を養えない大地の上で人は争い、戦いに敗れては別の大地へ移動する人が出てくるでしょう。
しかし、生きるためには仕方のないことです。過去の時代には、家族を守るためには、争うことは良い行いでさえありました。このように、争いや不正を行うことが良いこととさえ考えられるのが、「自然状態」にある人間の考え方です。
しかし、この自然状態では、いつ争いや不正がはたらかれるかが分かりません。振り返ったら突然刃物で刺され、全財産を奪われたとしても、文句すら言えない世界です。
そこで、そうした、お互いが不利益に苦しむ可能性を減らすために、「私は、不正なことは行いません」と個人同士が宣言したのが、社会契約のはじまりです。
それを聞いた他の誰かも「はい。私も不正ははたらきません」とそれに同意をする。この状態が、契約を交わした上で成り立つ社会を示していて、こうして成り立つ正義についてを説いたのがギリシア時代の思想家プラトンです。
社会契約論の誕生は、市民社会が生まれはじめたホッブズの思想から
契約に基づき成り立つ社会が、社会契約の世界ですが、この契約は法律や規律といった形をとっています。
社会契約論について語る時には、トマス・ホッブズと、ジャン・ロック、ルソーという3人の人物について考えることになります。前から順に古い時代を生きており、ホッブズと、ロックの思想が生まれた後で、最終的に「社会契約論」という名前を唱えたのがルソーです。
トマス・ホッブズの社会契約論とは
自国内で争いと混乱が起きていたホッブズの時代は、絶対王制の時代でした。
国民が権利を持つという発想が出始めてはいましたが、まだ、神が全ての権利を持っているとされた時代です。
そのため、教皇のように、神に近い立場の人間に対して権力が集中してしまい、国王はあっても、国が統治するという体制が築かれてはいませんでした。
そこでホッブズは、国王に対して権力を集中させ、平和と安全が保障された恒久的な国家秩序の樹立を目指し、国王に対して主権を集めるための思想を展開することになります。
ホッブズは、各個人が自分の本性を保存するために、自分の欲望のままに自分の持つ力を実行できる自由を、自然権と呼びました。
しかし、誰もが自分のことばかり考えるルールや規範のない状態、つまり自然状態においては、人々は争いを避けることができません。しかし、はじめは人は身勝手な振る舞いや、欲望に沿った行動をするとホッブズは考えていましたが、ホッブズは、やがて人は深く考えるようになり、そうした身勝手な振る舞いは損をするのではないかという思いに行き当たり、短絡的な行動を回避しようとする発想が生まれると考えたのです。
自然状態は、ルールや規範のない世界、つまり、社会が成り立つ前の世界ですが、ここから、社会の必要性が表れると考えたホッブズは、さらに思想を膨らませていきます。
自然状態において、人は真に平等であり、真に自由です。なぜかというと、人は、自分の欲望をどこまででも追求できるからです。
ただ、自分がやりたい放題やれる代わりに、相手もやりたい放題できるので、当然に不和が生じます。こうして戦争が起こるとホッブズは考えました。
これを、ホッブズは『リヴァイアサン』という本に、「万人の万人に対する闘争(戦争)」という言葉で記しています。
しかし、いくら戦争が起こるといっても、経験を積んだ人間は、例え法律やルールがなくてもある程度「理性」により、争いを回避しようとするとも考えました。この、何もない状態でも自然に発生しているルールを、ホッブズは、自然法と呼んだのです。
こうした、自然発生的に現れる規則については、自分を守るために存在しますが、これには、自分の権利と、他人の権利が等しく両立する必要があるために、平和が必要だと考えました。
さらに、平和を維持し、自分を守れるようにするには、自分の権利をある程度は放棄しなくてはならないと考えます。これは誰に対しても言えるので、誰もが、ある程度自分のしたいことや欲望を我慢することに納得しなければならない事になります。
そして、これらの自分が我慢する分についての権利は、契約として差し出されることになるとしましたが、強制力の無い場所で契約をしても、誰も悪いことをしても罰することができません。必ず、いつかは守らない人が現れてしまうだろうと考えました。
そこで、この差し出される自分の権利の提出先として、国家が必要であると考えたのです。つまり、国家というのは、多数の個人が、自分の自然権を放棄し、国家という場に対してそれを差し出すことで、命を守ってもらおうという契約の場の事です。
この時ホッブズは、国を代表するある一人格に対して全ての権利が譲渡される状態を考え、その人格は決して侵すことのできないもの、絶対的なパワーを持つものであると想像しました。
この、絶対的パワーを持つ主権者、つまり王様は、市民法をつくり、国民に法律を守ることを義務付けることになります。
ホッブズは王様に対して、神が力を受け渡したとして王権神授説を唱え、全ての権力を王に与え、国民にはそれに対抗する手段を与えませんでしたが、これは、時代背景がそうさせたものだと考えることができます。
まだ神が支配する世界で、教皇が力を持っている時に、突然市民に権力を与えることは難しいことです。そこで、人であるには違いない王に対して権力を集中させるまでに時代を進めたのが、ホッブズであったと言えるでしょう。
ホッブズに関する詳しい思想についてはこちらも参照下さい。
市民による統治が実現するまで思想を進めたのがジャン・ロック
ホッブズより半世紀遅れて登場したのがロックでです。
ロックは、ホッブズと同じ様に、平和と安全を約束するルールのある社会を求めましたが、好き勝手にされることを許してしまう専制君主を否定し、圧力のある政治を取り除くために国民の権利、個人の権利を求めて動きました。
ロックも、自然状態について考察していますが、ホッブズとは異なる視点を持っていました。
ロックは、あくまで、人々が自然状態で平等に持っている権利というのは、所有しているものを使う権利であって、他人の財産を侵す権利ではないと主張しました。つまり、ロックは、自然状態でも、自由と平等が成立すると考えていたのです。
ここから考えを発展させ、所有権について考察したロックは、ありとあらゆる物に対して、人々が、生産的労働によって価値を与えることで、所有する権利が生まれるとしました。さらに、個人が、自然状態であっても、犯罪は罰することができると考えていました。
ただ、貨幣が生まれたことで所有の形が不平等になっていったことや、法律がない世界では、やはり不平等が生まれやすいこと、また、公平な判断をする人がいないこと、公平な判断を実際に権力を持って実行させることができる人もいないことなどの理由をあげ、政治社会が必要だと説きました。
こうして、個人がそれぞれに合意して所有権を共存させつつ、所有権を守っていく目的として、政治のある社会が生まれると考えました。
ロックの考える政治社会では、法律は、自然法を細かく精査して定めたものであり、自分たちの権利を放棄して預ける先の権力者は、きちんとした人であるべきだと考えました。もし、その権力者が何かに違反した場合には権利を剥奪できるとし、最高権力は、あくまで権利を預けた側の国民にあるとしたのです。
そこからさらに考えを進めたロックは、権力を乱用させないための考えを巡らせ、権力の分割について考え、今ある三権分立の基礎を作ったのです。
つまり、ロックの思想は、今在る民主主義の根底を成しているということになります。
社会契約論という言葉を唱えたのはホッブズとロックの思想を継いだルソー
ルソーは『社会契約論』という本を書き、その中で、社会契約を結ぶことにより、人々は、共同体に対して自分の自然的な自由を譲り渡し、そうすることで、個人の奪い合いのない、自由で、平等な社会を築くための原理を手に入れるとしました。
しかし、権力者に対して自分の自然権を手渡しただけでは社会契約論は成り立たないという注意をルソーは本の中で呼びかけています。
市民が注意深く観察をし、市民主権を維持できるように意識を持って行動しなくてはならないと、そう、ルソーは述べています。
ホッブズ・ロック・ルソーを中心とした社会契約論のまとめ
好き勝手なことができる世界は弱肉強食であり、いつ誰に殺されるとも分かりません。
そこで人々は少しずつ、ルールを法律の形で書き記し、自分と、他人とを平等に守るための世界を作り上げようとしました。
自分が他人の領域を侵さないという約束こそが契約であり、こうした契約に基づく社会を社会契約論と呼んでいます。
しかし、自分と他人の所有するものにあまりにも大きな格差があることは、不公平であるとし、これについては解消すべきであるとも社会契約論は説いています。
石油資源を独占している人物や、鉱山を所有している人物と一般の市民との間には大きな不平等があるので、こうした富の所有の格差については是正されるべきだとしている訳ですが、しかし、これはまだ現実の世界では実現されていません。
先人の思想家たちはみな美しい理論や考え方を示していますが、そのどれも真の言葉の意味通りに実現されたことはありません。
いつかもし、社会契約論が理論の通りに実現する日が来るとしたら、市民1人1人が思想を持ち、意識を高く持った時であることは確かだと言えるでしょう。