死ぬ権利が存在することで生きて生ける人がいる
安楽死の否定派と肯定派がいるのは死がタブー化されているから
安楽死については、否定派と肯定派の意見が分かれます。
否定派には、「死」が闇として捉えられ死を否定する感情を持っている人もいますし、安楽死のある世界では、高齢になった人が「死」を強要されるのではにかという懸念があったり、中には、安楽死は「自死」であるから、死後の世界で天国に行けなくなるという考えを持つ人もいます。
一方で、肯定派の意見では、生きる権利と同等に死ぬ権利があるという考え、生きることの方が辛い状況になってまでなぜ生きることが強制されなくてはならないのかという生きることを強制することへの抵抗、安楽死は尊厳死であり、自分で選ぶのであれば、「死」も、選択肢の一つであっていいはずだという意見があります。
そもそもなぜ、否定か、肯定かという議論で争ってしまうのでしょうか。
その争点を知り、正しく死ぬ権利を理解すれば、「死」は避けるべき話題でも、相手の意見を非難、否定する必要のあるものでもないことの気付くはずです。
安楽死は自殺を助長するという考えがある
安楽死には、自殺幇助(ほうじょ)という言葉が使われるほどに、「自殺」と密接に絡み合っています。しかし、そもそも「自殺」の定義とは、何なのでしょうか。
病気での死や老衰も、完全な「自然死」といえる死ばかりではありません。緩和ケアを受けながらの死や、医療に助けられて生かされていた人が、生命維持の機械を停止したために死ぬということもあります。
「最後まで頑張ったから」
そうした言葉で片付けてしまう人もいますが、それは、議論を放棄しているとしかいえません。
本当は、頑張りたくなかったかもしれない。楽しい思い出でいっぱいの時点で死にたかったかもしれない。それは、死んだ人に聞かなくては分からない答えです。
ここで大切なことは、あなたにとっての大切な人の死を想像するのではなく、自分だったらどうか、自分ならどう判断するか、を基準に考える必要があるということです。
他人を基準にすることで、忖度が生まれている
家族や、友人に安楽死を勧められる人がいったい何人いるでしょうか。
家族が安楽死をしたいと言っていたとしても、いざ介護の時がやってきて、認知が進んでいる場合に、「昔、安楽死したいと言っていたから」と、安楽死を勧められる勇気のある人が、どれくらいいるでしょうか。
懸念されている通り、安楽死が現実になると、「家族に世話をしてもらい最後まで面倒を見て欲しい」と言っていた人でも、家族が何らかの事情で世話ができないことを理由に、被介護者は「安楽死を希望していた」と嘘をつき、望まぬ安楽死が起こるということも、安楽死が合法化されれば必ず出てくるケースだと思います。
しかし、それだけを理由に、安楽死はダメだ、と言ってしまうと、苦しい思いをしながら死ぬのが本当に嫌だと感じている人間に、苦しみの中で生きるか、苦しい自殺を強いることになるのです。
生きる権利はあるが死ぬ権利はないのは個人のためではない
生まれたら、「生きていかなければならない」と言われ、生存権は保障されますが、誰にも、「死んでも良い」という死ぬ権利は保障されていません。
自死を選ぶ人は一定数いて、それは仕方のないことである、と、暗黙に思われていることもありますが、「自殺してもいいんだよ」と、死を促す人間は、悪とすらみなされます。
なぜ、生まれたら、必ず生きなければならないのでしょうか。
誰かにとっての生きづらさというのは、何も、身体的な能力に拘束されるとは限りません。
どれだけ恵まれた肉体を持ち、どれだけ恵まれた環境にいても、生きることに絶望している人もいます。ここで、「死」がタブーとされる原因のいくつかを見てみましょう。
人口減少は許されないために安楽死は認められない
まず第一に、社会とは、人の集まり、共同体であり、人がいなくては成り立たちません。だからこそ、社会は、人を生かす方に向けさせるのです。
動物の場合には、必ずしも生まれた個体の全てが生かされる訳ではありません。例え生きたいと思っても、親や仲間が弱い個体を食い殺すこともごく普通にあることですし、死を覚悟して、群れから離れ、静かに息を引き取る個体もいます。
しかし、人の場合には特殊で、科学や技術の発展に伴い、自然界で生きられる個体だけが生きる世界ではありません。生かすことが善と定義された世界では、どんな形であれ生きることこそが素晴らしいという考えが強制されている側面があります。
安らかな死を叶えるための医療と技術ができあがっている今では、人々の中には一定数、安楽死への願望のある人がいます。しかし、人間の場合には、数によって支えられる国を維持するためにも、その願望は阻まれる事になります。
国は、人に「楽に死んでも良い」という権利は与えません。
ほとんど苦しむこともなく、楽に死ねる選択肢があれば、誰もが死んでしまい、国が継続できなくなるということも起こり得るのです。
ある一定の数を確保できなければ、国は存続しません。
もちろん、本心には「生産世代」が多いことこそが国の希望でもありますが、「死を許容する」などということは、国の根幹にある意志と矛盾してしまうために、できることではないのです。
これは、国が、つまり、個人の意志ではなく、集団の意志こそが大切だという事実を反映していることになります。
この国という概念は、宗教とも密接に関わっています。国を支えるために生まれた思想、または、生きることや、望まない死を正当化するために生まれた思想が宗教であり、宗教は、基本的には、共同体を成立させるためにあるものです。
こうして、宗教や、国の法律・規律により、「死」が支持されない理由が生まれます。
死は等しくやってくるからこそ生きるべきという考え
また、個人の考え方として、死は誰にも等しくやってくるものだからこそ、自然か、不自然かはともかく、向こう側から死がやってくるまでは、生きるべきだと考える人もいます。
しかしこの場合、不自然な死の基準がとても曖昧なものになっています。
人間の社会的営みがなければ存在しない事故、たとえば、飲酒による死や、車による死、倒壊した建物による死などは、完全なる自然な死とは呼べません。
また、社会の生活の中で心を病んでしまい、死を求めるようになった人の死は、社会が原因の死ともいえます。
少なくとも、何かしらこの世に好きなことがある人が、それは例えばゲームでも、音楽でも、漫画でも、どんな事でも、その好きなことだけをして生きても良い、と言われたら、死ぬ間際まで好きなことをしていてもいいかな、と思うのではないでしょうか。
しかし、辛いことや苦しいことが、その好きなことを上回ってしまうからこそ、「死」を意識するようになるのです。
こうなると、社会に「死」の原因があることが見えてきます。
社会的な要因による死は、完全な「自殺」なのでしょうか?
せっかくの命。もったいない。
そういう表現をする方もいますが、命の重さの感じ方は、本当にそれぞれです。
だからこそ、他殺という行為も起こります。
もったいないという考えを誰もが持つ訳ではありません。
こうなると、「生きるべき」という言葉は、誰かの願望でしかないという限界が見えてきます。
「生きるべき」と考える人が、「死にたい」という人を、本当の意味で説得できなければ、死ぬ権利が存在しない今の世界では、「生きるべき」と考えている人が、「死にたい」人の権利を奪っているともいえます。
権利の不平等は生きる権利も侵害することになる
生きる権利がある一方で、死ぬ権利があるということこそが、バランスを成立させることになるのですが、それはなぜかを見ていきます。
今の世界は、生きる権利があるというよりは、生きなければならないという義務がある社会です。
例え、この世界に死ぬ権利があり、希望した時に、希望した形で、痛い思いをせずに死ぬことができるとしても、もしも、生きることがとても楽しく、面白いものだったら、その死ぬ権利を行使するのは、本当の死の間際でしかないはずです。
死ぬ権利を成立させたくない人の中には、間違った考え方や一時の気の迷いで死ぬ必要のない人が急ぎ死んでしまうかもしれないという懸念を持っている人がいるのも確かです。
しかし、今、死ぬ権利を存在させまいとする人々の多くは、生きる人から搾取することを生業としている人たちでもあります。
もちろん、突然「死ぬ権利」がこの世界で認められて、死を希望する人が増えた場合に、一時的な人口減少による社会への弊害や、死ぬ人が増えたことで墓場がない、火葬場が行列になるといった問題は起こるでしょう。
しかし、そうした何かが変化する時に起こる弊害というのは、何に対する変化であっても、必ず起こるもので、それ自体には、新たな変革を止めるだけの力はありません。
今、死ぬ権利がこの世界に存在できない本当の理由は、この世界で生きることに対する確固たる自信、この世界は楽しくて、意味があって、意義深いのに、という自信が、ないからではないでしょうか。
死んで欲しくないならば世界を生きたい場所にするべき
死んで欲しくない、と本当に願っている安楽死反対派の人々は、死を肯定し、死ぬ権利を求める人々に対し、それを否定するのではなく、そんなことを忘れさせるくらいに、面白い、楽しい世界を創ることに必死になるべきではないでしょうか。
つまり、国が、社会が、宗教が、この世界をよりよい場所へと向けないかぎり、「死の権利」に対する渇望は増えるばかりです。
しかし、そうした、他人から見て、「死を選ばなくても、生きられそう」な人ばかりが、「死ぬ権利」を求めているのではないこともまた、確かです。
本当に切実に、自分の生き方の選択として、最後の時間を選びたい人もいるのです。
そういう人々にとっては、死ぬ権利を認めてくれない社会や国、人々は、自分の生きる権利すら阻害する、悪になっているという事実も、見過ごせない真実ではないでしょうか。
安楽死がある方が生きることが楽しくなる人もいる
人は、死に方を知っています。
どうすれば死ぬのかを知っているということは、選ぼうと思えば、死は選べるということです。
どんなに必死でそれを止めても、止めたいと思っても、いつかは必ず訪れるのが「死」です。
しかし、人々は、あまりに「死」に怯え、恐怖するあまりに、今と、未来すら犠牲にしはじめています。
日本では、老後の資金に二千万円が必要だということが議論になりましたが、そもそも、なぜそんな先のことを憂えて生きなければならないのでしょうか。
備えることは大切です。しかし、老後の不安に駆られて、今を全く楽しめず、苦しい人生を生きなくてはならないのであれば、自分が決めた、「こうなったら死のう」という安楽死を叶えてくれる世界で、賢明に生ききって、もう生きられないと判断した時に死ぬことができる方が、幸せで、かつ、生産性のある社会になるのではないでしょうか。
なぜ、「死」が不幸を呼ぶと決めるのでしょうか。
安全で、安心な「死」が待っているとしたら、明日、賢明に頑張れる。未来を不必要に心配せずに生きて生ける。そういう人もいるのではないでしょうか。
死の恐怖が死ぬ権利を阻害している
ただし、「死ぬ権利」が生まれれば、人の労働力が売買されるように、死も売買されるようになります。
人を、死に追いやる人が増える可能性もありますし、希望していないにもかかわらず、安楽死させられてしまうことも必ず出てきます。これらは、新しい技術が、そうとは希望していないにもかかわらず、人を殺すために使われていったことに似ています。
それを利用する人間の方が、モラル、倫理に欠けている場合、個人の意志が正しく尊重されないといった結果が起こることもあります。
ただ、今、「死」への恐怖や不安が、かえって「死」を求めさせているという現実を思えば、死ぬ権利を保障することで、拓ける未来もあるのではないかとも思うのです。
今すぐ死にたい人は、社会に殺されようとしている人
死にたい、と考えている人々の多くは、思慮深く、現実の世界をよく見ています。
今、居場所がない、または、いつか居場所がなくなるのではないかという恐怖に支配されている人もいるでしょう。
「生きること」への恐怖も、「死ぬこと」への恐怖も、どちらも、死を求めさせます。
今、何が不安で、何が嫌なのか、まずはそれを知る必要があります。
対人関係なのか、社会そのものなのか、未来への不安なのか、さまざまな原因がミックスし、人は、生きることから逃げ出したくなりますが、しかし、好きなことが一つもない、という人もなかなかいません。
遊びであれ、自然であれ、ペットであれ、好きなもの、こと、がある人は、まずはそれを意識し、逆に、嫌いなことは、捨てられるものは、捨ててしまうことが大切です。
周りと比べて、「こんな風にはなれない」と悩んでいるのであれば、「こんな風にならなくても、私は楽しく生きて生ける」と思える、そういう生き方を探すのです。
他の人と違う生き方というのは、身近に手本がないものです。
だからこそ、探り探り、自分で生きていくしかありませんが、いつか、必ず確実に死ぬのだとしたら、一つでも好きなことがあるのなら、死ぬ間際のぎりぎりまで、生きてみるものありではないでしょうか。
今は見えない未来でも、いつか見えそうな予感があるのなら、それも、生きる希望です。
誰かを思う力も、ちょっとやってみたいという気持ちも、そうした全てが、あなたの「生きる権利」と「死ぬ権利」を同等に支えています。
スポーツ、ミュージカル、音楽、お祭り、遊園地、水族館、漫画、テレビ、インターネット、パフェ、ハンバーガー、チョコレート・・・・・・、何でも良いのです。あなたに、一つでもこの世に好きなものがあるのなら、生きることを続ける意味はあるでしょう。
死ぬ権利は、死の称賛ではない、ということを誤解しないでいただきたいのです。
真の平等の為にも、人間の成熟のためにも、「死ぬ権利」については議論され、かつ、存在することができる日が来ると、信じたいものです。