【ルネッサンス】教会の権威が衰退、個人が力を手にする「人文主義」思想の時代

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ルネッサンスは古代ギリシア・ローマの思想が復活する時代

中心が「神」から「人間」へと移り、ヒューマニズム(人文主義)が広がる

中世が終わり、古代ギリシア・ローマの思想が復活するルネッサンス(復興)がはじまると、哲学と科学が教会の神学と結びついていた時代が終わり、哲学は哲学、科学は科学としての分離がはじまりました。

全ての物事の中心が「神」であった時代から、科学や哲学として人間の行動や知覚できるもの、思考を理解するようになっていくと、人間中心の世界ができていきます。人間中心の物の見方をする世界は、人文主義(ヒューマニズム)と呼ばれます。

ルネッサンス期にはギリシア語が流行し、ギリシア文化を勉強した上で教養を身に付けることは古典の教養によって「人間をつくりあげる」大事なプロセスとされました。中世の終わりには、半自給自足から貨幣経済へ移行し、銀行制度も出来上がります。生活に必要な物がお金で買えるようになり、人々が勉強をする時間を作れるようになると、人々は思索や勉学による新たな価値観を求めるようになりました。

ルネッサンスは、人間の罪深い本性を強調してきた教会による中世の人間観から、人間には他にはない特別な価値があるとする考えへと転換が図られた時代です。古い権威をただひたすら信じることに疑問を持ち、観察や経験、実験による証明が必要だと考える「経験的方法」の考えが生まれました。

神と人間の思想が分断され教会の権威が失われると、力が個人に移っていく

イタリアを中心としてヨーロッパ全体にヒューマニスト(人文主義者)が広がったルネサンスの時代には、より「人間的なもの」を探求することこそが使命と考えられました。ヒューマニストたちは、古代ギリシア・ローマにおける古典的な文化や思想から、人間的なものを探求しようとします。

 

ギリシア・ローマの文化の時代は古代、その中間期にある時代は中世として認識されていますが、中世の時代は二元的な価値基準によって「両極への分化」が進んだ時代と言われています。

 

神と人、聖なるものと俗なるもの、信仰と知性、霊体と肉体。聖なるものは俗なるものより秀でていて、いつどんな時も優越するという考えの下、あらゆるものが二極化されると、そうした思考が階級を生み、差別意識を広げていきました。

 

ルネサンスは、そうした閉塞的な考え方への変革として生まれました。

 

カトリック教会が衰退していくこの時代には、ギリシア哲学とキリスト教の信仰を結びつけるスコラ哲学が解体していく時代でもあります。古代末期に教父アウグスティヌス(354年~430年)が目指したキリスト教とギリシア哲学の学問であるプラトン哲学との融合や、特にその思想の頂点と言われるトマス・アクィナス(1225年~1274年)が目指したアリストテレス哲学とキリスト教の融合であるスコラ哲学は、現在でもカトリックの思想の中に生きているものですが、多くの市民がこうした思想から距離を取りはじめます。(アウグスティヌスとトマス・アクィナスについては「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教と哲学」を参照下さい

 

自然主義的なアリストテレスの思想と、反自然主義的なキリスト教の信仰を結びつける行為は、知覚することができず、合理的・論理的な視点から説明できない「神」というものを、哲学の世界に持ち込むことでした。そのため、両者は決して相容れないものであり、分断すべきというオッカムによる主張が生まれます。そして、このような神と、人の思想の世界の分断がはじまると、これはルターの宗教改革も後押しする思想になっていきます。

 

イタリアの美術の傑作が数々誕生したルネッサンスの時代は、一般的には1450年~1550年あたりを指しますが、その前後百年程度の間にも、ルネサンスに通じる歴史的な出来事があり、ルネサンス特有の思想が発展しています。この時代の思想は、レオナルド・ダ・ヴィンチが絵画や彫刻の他に、土木技師、軍事技師としても知られたように、個人が一つの物事に打ち込むのではなく、あらゆるものに挑戦した時代であり、思想もそうである時代で、個人によってさまざまな考え方が生まれました。

個人主義の台頭が「一人の天才」を崇める思想へと繋がっていく

プラトン主義とアリストテレス主義

古代の思想から人間的な教養を復活させようと考えた人々の思想的立場には、主に「プラトン主義」と「アリストテレス主義」がありました。

 

東ローマ帝国がトルコの攻撃により滅亡したことがきっかけとなり、学者たちが亡命すると、コンスタンティノープルからイタリアにギリシャ語写本が移されますが、これをきっかけとして、フィレンツェのメディチ家のコシモ(1389年~1464年)に支援されてプラトン・アカデミーが開かれました。

 

プラトンのすべての対話編をラテン語訳したフィチーノ(1433年~99年)は、キリスト教とギリシア哲学との融合を考えますが、彼は、キリスト教も哲学も心理を明らかにするために神に与えられたものであるとして、「哲学=宗教」という立場で、人間の魂は不死であると考えました。フィチーノは、「人間は神の種族である」として、人間を特別な存在と考えるようになります。

 

一方で、ピコ・デラ・ミランドラ(1463年~94年)は、プラトン哲学、アリストテレス哲学、キリスト教神学、ユダヤ教の神秘思想なども融合し、神智学を構想すると、人間には善い人間がいる一方で、悪行をはたらく人もいるが、どのような生き方をするかは自由意志であり、人間にはその尊厳として自由意志があるとしました。

 

フィチーノの思想も、ピコの思想も、人間中心主義であり、さらに、個人主義の側面を持っています。プラトン哲学を中心とする彼らの思想は、ルネッサンスの思想の中心となり、その後の思想を発展させていきました。

 

こうした中で生まれた「たった一人の特別な人間」という考え方は、その後「天才」を崇拝する思想へと繋がっていきます。

 

もう一つの思想の中心であるアリストテレス主義は、イタリアのパドヴァ大学に拠点を持ち広がっていきますが、アルストテレス主義の非宗教的で自然主義の考えを持つ思想の下では、科学が発展していきます。パドヴァ大学に生徒や教師として在籍した人々には、コペルニクス、イギリスのハーヴィ、ガリレオ・ガリレイなどがいました。

 

アリストテレスの思想から考えを広げたポンポナッツィ(1462年~1525年)は、不死論を否定し、人間の知性は、身体につながっているため、身体が無くなれば知性も死ぬと考えました。こうして、かつての教会が主張したような、この世に生きている間に道徳的行為に努めるべきという考えを持ち、来世を期待して、その賞罰を考えて生きることは卑しいことだと考え、自然の秩序の中に人の運命は定められていると考え、より科学的な思想の立場を取る思想が生まれました。

【人文主義】ヴァラ、マキアヴェリ、モア、エラスムス、モンテーニュ

古典の文献を研究し、人間を復興させるために学問的にアプローチした人々を、人文主義と言いますが、人文主義の代表的な思想家は以下の通りです。

ロレンツォ・ヴァラ(1407年~1457年)

中世の修道院や古代ストア派の禁欲主義的な考え方に反対の立場を取り、エピクロス的な、人々が幸福と快楽を追求していくことこそが人にとっての良い行いという考えを持っていた人物です。(ストア派、エプクロス派についてはこちらを参照下さい

法王に対して現世の支配権を付与していると広く認められていた「コンスタンティヌス寄進状」を文献学者として吟味し、これが偽物であることを論証しています。信仰をもっと純化させるべきと考え、信仰は信仰として、哲学や権力と区別するべきと考えていました。

マキアヴェリ(1469年~1527年)と『君主論』

外交使節としてフランス、ドイツ、スイスなどへ派遣されたことのあるマキアヴェリは、政治と君主について『君主論』を記したことで知られています。

独裁君主であれば政治上必要な時には暴力も詐術も許されるとしたマキアヴェリズムの背景には、当時のイタリアの政治が不安定で、特にフィレンツェにおいては人々が堕落と腐敗の中に生きていたという事実が反映されています。

腐敗と堕落の中にある人々ばかり見ていたマキアヴェリにとっては、人が本来から信用のおける善良な人間であるとは信じられず、法の強制力なくして人々を良い方へ向かわせることは不可能であると感じていました。

トマス・モア(1478年~1535年)と『ユートピア』

当時の腐敗しきったイギリスの政治に対する絶望から生まれたと言われるトマス・モアの『ユートピア』は、古典文学、プラトン哲学、キリスト教を思想の背景としています。

イギリスの体制を批判し、現実には存在しない(できない)国として「ユートピア国」を想像したトマス・モアは、プラトンの理想国家の構想を参考にしながら、事実上の共和体制の国を理想として描きます。

私有財産が撤廃され、貨幣は存在しない共産制による国。その一方で、家庭生活で保育や教育が手厚く保護されている。人々は、物質的な肉体的な快楽ではなく、精神的な快楽を求めながら、よ良い人間として生きていくことが求められる世界。

そんな世界を心から望みながらも、しかし、実際の人間によってそれが現実になることは期待できないということも分かっていました。

トマス・モアはヘンリー8世の離婚のための王位至上憲法に同意しなかったことで断頭台に送られ、処刑されてしまいます。

オランダのエラスムス(1465年~1536年)

聖書原典を精読し、キリスト教の真にあるべき姿を考えたエラスムスは、悪と罪に立ち向かい、その武器として祈りと知識を持つものこそがキリスト教徒であると考え、当時のカトリック教会の腐敗を揶揄した『痴愚神礼讃』を記しています。この姿勢は、後の宗教改革の精神に近く、マルチン・ルターの改革運動に同調する部分もありました。

フランスのモンテーニュ(1533年~1592年)と『エセー』

ボルドー市郊外の貴族に生まれ、市長まで務めたモンテーニュは、職を辞した後に随想録として『エセー』を執筆します。

人間の理性も知識も無力で虚しいものだとするモンテーニュは、人間の考える宗教も知識も、確実なものではなく相対的なものでしかないと考え、確実性は実際には存在しないと考えました。理性的な原理は存在しないとし、習慣や生命的な自然を尊重し、自然主義的な面から人間について考察したモンテーニュは、人間の他の動物に対する優位性を否定しました。

人為的なものは何であれ相対的に考えること(比較すること)で理解されること、人らしく生きる生き方も規約として存在することで守られることからは逃れられず、この世界には絶対的な何かがあるはずはないと考え、「私は何を知っているだろうか」と、懐疑論的な物の考え方をしていました。

「個人」の認識が復興するルネッサンスは、画期的な発明品も生まれた時代

「羅針盤」「大砲」「活版印刷」は、ルネサンスの三大発明と言われています。羅針盤により大洋航海が進み、大砲により戦争はこれまでと激変、活版印刷は思想と文芸の伝達をはやめました。また、この時期には、「宇宙観」が変わった時代でもあります。太陽を中心とする宇宙像が作られ、科学が進み、天文学の他に力学上の発見も相次ぎました。

 

中世の世界では、宇宙観は「有限」でした。俗物的なものである実体のあるものは全て、限りがあるとされたため、宇宙もまた自然であるから有限であるとされたのです。そして、この世で生きることは、天国の世界で生きるための準備であるとされていました。

 

一方で、ルネッサンスの時代には、宇宙は「無限」であるという考えが広がります。人間が肯定されたことで、今、生きている時間が重要となり、自然のいたるところに神が宿っていると考える汎神論的な思想が広がりました。

 

ただ、汎神論的な思想や人間個人を尊重する思想が広がっていくのは容易なことではなく、実際にコペルニクスを経てケプラーによって地動説が証明されるまでには、教会の反対により処刑された人々も大勢います。このように、魔女裁判、火刑、魔術、迷信、宗教戦争が至る所に見られたという点では、ルネッサンスの時代には、アンチヒューマニズムも多く存在した時代でした。

 

ルネッサンスの時代の思想は、今の人間に置き換えても納得のいく考え方ばかりです。過去の思想を見直すことで、今の人々が抱えるあらゆる問題の本質に気づけるかも知れません。

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