生きづらさを解消するためには、まずその原因を知る
生きるのが辛い時には「生きる力」か「生かされる力」が欠けている
生きるためには、「生きる力」か「生かされる力」の、少なくともどちらかが必要になります。
生きる力の強い人というのは、社会に適応する力の強い人のことです。
この、社会に適応する力の強さというのは、必ずしも「成功」は意味していませんが、上手に社会を生きて生けるという意味においては、生きるのが上手い人のことを指してもいます。
一方で、「生かされる力」のある人というのは、例えば、自分一人では生きることが難しい状況にあっても、それは、例えば赤ちゃんのように、周りの人たちに、この人を生かそうと思わせる何かがあり、生きることを手助けしてもらえる力を持っている人のことです。
生きる意味と気力を失っている人
生きる意味と気力を失っている人が、生きる力のない人です。
身体的に恵まれていないとか、頭脳の面でめぐまれていないとか、そういった要因は、必ずしも、生きる力に関係してはいません。身体的にも頭脳的にも恵まれていなくても、生きる力の強い人はたくさんいます。
生きる力のない人というのは、「生きる気力が湧かない人」ですから、あらゆる事に対してのやる気が感じられなくなっています。
生きるためには、何かをしなければならなりませんよね。
食べること。寝ること。清潔を保つために歯を磨き、風呂に入り、掃除をすること。そうしたことから、生活をするために稼ぐことまで、すべきことというのは、色々あります。
生きる力のない人は、こうした、あらゆる事に対する気力、または、特定のどれかに対する気力が湧かず、人によっては、辛い思いをして苦しみながらやっているかも知れません。
例えば、働くことが苦痛で、どうしても受け入れられず、しかし、誰かに生かされる訳でもないので、どうしても辛くて仕方がないといったことがあります。
これには、「やりたい仕事」がない場合もありますし、やりがいのある仕事に辿り付くまでの道のりが長く険しいので、そこを乗り越えるのが難しくて、気力が湧いてこないということもあるでしょう。
ここで注意したいのは、生きる力には、必ずしも「やりたいこと」が必要ではないということです。
やりたいこと、夢、目標。そうした物がなくても、生きることができる人もたくさんいます。今を楽しむのが上手な人にとっては、特に将来のために何かを頑張る必要はありません。
生きる力のない人には、いくつかのタイプがあると言えるでしょう。
このように、様々な理由で生きる力を失っている人は、「何をやっても辛い」という苦しみの中にいるかも知れません。
助けてくれる人や頼りになる人が周りにいない
助けてくれる人や、頼りになる人が傍にいる人には、生かされる力があります。生かされる力というのは、守られる力のことです。
あらゆる理由で自分一人では生活できない人はこの世にたくさんいます。
身体的な問題、知能の問題、金銭の問題、精神的な問題。色々な理由で、人と人は互いに支え会い、共同体を作って生きています。
それが、恋人であったり、友人であったり、家族であったり、組織であったり、形は様々でも、生かされる場がある人は、生きる力を得ていることになります。
誰かに、「生きていて欲しい」と願われること、実際に、金銭や労働といった形で支えてもらうこと、これも、その人の生きる力です。
しかし、こうした生かされる力というのは、誰もが持てるものではありません。
孤独で支えもなく、周りに自分を大切にしてくれる人はいなくて、生かされる力とは無縁だという人もいるでしょう。
生かされる力のない人の中には、人に甘えるのが下手であったり、自分の思っていることを人には言えなかったり、優しさや気遣いが過ぎるあまりに、そうした「助け」とは無縁になってしまう人もいます。
社会が冷たいと感じ、この世界が好きになれない場合
この世で生きることが辛いと感じる人の多くは、感受性の豊かな人々です。想像力が豊かで、人付き合いをしていても、相手の意識にばかり気がいってしまう人もいるのではないでしょうか。そうするうちに疲れてしまって、どうしても、今ある世界が好きになれず、生きる力が湧かなくなるという人もいるでしょう。
奴隷のように自分の意志のないところで働きながら、貧しく暮らさなければならない現実に生きる気力も湧かなくなることは当然あり得ることです。
友人や、恋人、夫や妻、兄弟や家族に裏切られ、この世には、優しさなどないのかと絶望し、生きる気力も湧かなくなっている人もいるかも知れません。
他の人はあんなにも楽しそうで、あんなにも色々なことができるのに、自分の無能さに絶望し、生きる気力も湧かないという人もいるでしょう。
そうした、さまざまな世界への絶望から、生きる力も、生かされる力も持てないということがあります。
しかし、本当に幼い頃からそのような思いを抱えているというケースは、少ないのではないでしょうか。
もしも、もう一度赤ん坊に戻り、人生をやり直せるとしたならば、と考えた時に、「こうするのに」「ああするのに」と考えることができるのであれば、そこにはまだ生きることに対する希望があるという事です。
生きる力を手に入れて、気力を回復させるには
生きる力というのは、学力と関係があるわけではなく、あくまで、社会にどう適応できるか、が鍵となります。
世の中には、様々な職業があります。絵を描くこと一つを取っても、イラストを描く、漫画を描く、絵画を描く、アニメを描く、さまざまな職業が考えられます。
どれか一つでも、職業として成立させることができる能力があれば、労働をこなすことはできるようになります。
しかし、「できる」ことは、労働を「したい」には結び付きませんね。
全く同じ労働をするにしても、それを行う環境次第で、やりたいか、やりたくないかは異なってきます。
何かをやれば感謝され、人々が優しく対応してくれる環境ならば、心地良く働けるかもしれないのに、やっている仕事は嫌いじゃないけれど、環境が良くないという人もいるでしょう。
人によってはむしろ、全くストレスのないような場所ではかえってやる気がなくなり、だらけてしまうということも考えられます。
結局のところ、自分にとって最適な環境、最適な世界があれば、意識することもなく素直に生きられるということです。
しかし、現実の世界はそうはいきませんよね。
個人のそれぞれが、自分にとっての最適な環境を求める戦いの末に、それぞれが妥協し、人によっては自分の望みのほとんどを諦めるという結果になることもあるからです。
ですが、こうした環境を求めるための戦いで負けてしまう要因の1つには、自分のことをよく知らないから、人に譲り過ぎてしまうという場合もあります。主張の強い人、ずうずうしい人の方が、ずっと生きやすそうで、ずっと楽しそうに見えませんか?
そこまで強く主張する必要はありませんが、譲れない自分を持つことは、生きる力を手にする大切なプロセスです。自分を良く知ることが大切になるということです。
自分の得意なことは何か。得意なことがないのなら、何なら伸ばせそうか。
もし、自分は耐えられるが、他人には耐えられないポイントが見抜けると、そこは、自分にとっての強みになってきます。
他人と同じ土俵で争わないことが大切
生き辛さを感じる根本的な原因は、人間が共同体を作り、社会で生きることで身につけたある能力のせいでもあります。
それは、「共感」です。
人は、人と共感することができます。
人は、互いを比較し、「同じであること」と、「違っていること」を見抜くことができます。
しかし、その能力のせいで、むしろ人は、「同じでなければならない」という呪いを自分にかけるようになりました。
生きることさえできれば、生き方の違いに善悪はなく、正解、不正解もなありません。
しかし、他者を理解するための能力が、自分の人生が不正解のような錯覚を起こさせるのです。
これは、同じ土俵に自分と他人を並べることで起こっています。
そもそも、自分と他人は違うということを理解して、さらに、この世に人は70億人もいるのだから、あのたった1人の意見や行動に左右される必要のどこにあると考えるようにしましょう。
そうやって、自分と他人にほど良い距離を置くことは、身を守り、生きる力を育てるための大切な手段です。
これは、他人に、自分を比較させないための方法でもあります。
人によっては、大きなお世話ということを平気で言ってくる人がいますよね。どうして結婚をしないのかとか、子供はまだかとか、こういう生き方をすべきだとか。断定的に人に意見を述べる人がいますが、そうした人々の比較対象に自分を入れないでもらうためには、はっきりと、あなたの意見には興味が無い、と示す必要があります。
他人は他人と思うことで、自分自身が他者へと干渉することもなくなり、比較をして生きる気力を失うという構造がなくなります。
自分が、他人のことに良い意味で無関心であることが肝心です。
友人や家族に起こった出来事や、得た物、失った物については、その人特有の経験として認識しましょう。ただ、相手の痛みや喜びそのものには、自分の事のように共感するようにします。
比較するのではなく、同じ立場にあるような疑似体験をしながら、苦しみと、喜びを共有するのです。
そうする事で、友人や家族との絆は深まります。
誰かの犠牲になって生きる力を手渡してはいけない
しかし、現実の世界では、こうした理想的な形で生きる力を持つことは難しいかも知れません。
多くの場合は、他者の犠牲の上に、誰かの生きる力が使われているといます。
この場合、犠牲にしている側、他者を利用している側の人間に良心はなく、感謝の気持ちもない場合が多です。これらの人は、毒親と呼ばれる人々や、他者をコントロールする生き方をするモラルハラスメントの当事者や、ワンマン経営者や、それに似た人々です。
こうした人の中には、他者を利用しているという認識すらない場合もあるでしょう。
しかし、使われている側の人間は、それを強く意識しています。
誰かが、その人の望みを叶えるためばかりに自分を利用しているのだろ感じたのならば、立ち上がり、戦わなくてはなりません。
もちろん、その場から逃げ出し、新たな場所で生きるという選択もあります。逃げる方法があるのなら、逃げる道を選びましょう。
しかし、こうした生きる力を奪う人の犠牲者というのは、たいてい身近な人に利用されていることが多く、すぐには利用する立場の悪人から逃れられないこともあります。
もし、あなたが、具体的な理由があって、誰かのせいで生き辛いのならば、そこから脱出する方法を考え無くてはなりません。
話合いや引越、転職、転校、何らかの方法で脱出することができれば良いのですが、もう動く気力も湧かないとと感じているのならば、それは命の危機であり、すぐにでも、医療機関や行政に掛け合うか、信頼できる人に連絡する必要があります。
利用されやすい人ほど、他人に頼れないことが多いのが事実です。「助けて」の一言は、案外届くもので、「助けて」を普段言わない人ほど、何度か口に出し練習してでも、身近にいる人や行政や病院で「助けて」と訴えてみて下さい。
そうすることで初めて、「自分が何を望んでいたのか」が見えてきて、自分を知り、防御の方法を覚えていけることにもなります。
※ 明日行ける心療内科の一つはこちら(心療内科は、予約制のところが多く、長く待たされてしまうことも。けれど、辛い時には、今助けて欲しいはず。近隣にある、明日やっている心療内科へ行きましょう)
自分がどうしたいのかが分かったら、考えるより動いてみる
生きる力も、生かされる力も、空から急に降ってくるということは、ほぼありません。全くないとは言いませんが、ラッキーが舞い込んでくるというのは宝くじを当てるようなものです。
けれど、がむしゃらに努力をしてみることで、生きる力が湧くことはあります。それは、先にも書いたように、誰かの真似をするとか、誰かと同じ人生を歩めるようにという努力ではなく、自分にしかできない、自分のための努力のことです。
継続は力なり、とは良く聞く言葉ではありますが、続けるということは、それだけでも価値があるのです。
自分が努力をしているのに生きるのが辛いのか、努力をしていないから不安になり生きるのが辛いのか、そうした自分に起因する胸の内の苦しさというのは、自分が一番良く分かっているものです。本当は、心の奥底では何をすれば良いのかが何となくは分かっているということもあるでしょう。
具体的な「成功する人生」についてのマニュアルは存在しないし、例えマニュアルがあったとしても、それを実行するにはそれなりに苦痛と努力が伴うものです。
具体的にできることといえば、自分のことを紙に箇条書きにしてみるという方法があります。
そうしたことを書き出すことで、具体的に何ならできそうか、が見えてくるはずです。今は出来なくても、将来ならできそうだということも見えてくるかも知れません。
外に向かって発信することで生きることを応援してくれる人をつくる
もしも、友人や家族が自分の応援をしてくれれば、それだけでも生きる力につながります。
しかし、忘れてはならないのは、自分を一番応援できるのは、他ならぬ自分だということです。
他人を変えることは難しいことです。
それと比べると、自分を変える方が簡単です。
自分の考え方を変えることで、自分を応援できるようになるかも知れません。
とても簡単で、単純な方法ですが、毎朝起きた時や夜は眠る前に、「自分は大丈夫」など、肯定的な言葉を自分にかけてあげるというのも、今からできる、簡単な生きる後押の方法です。
嫌なことや苦しいことをただ受け入れるだけで生きていると、そこから現状を変えることは難しいでしょう。
そんなことで、変われるのかとあきらめてしまう前に、自分を本当の意味で理解する努力や、自分をいたわる努力をしてみると、見える景色が、変わるかも知れません。
※ 国の制度の中には、具体的に苦しんでいること(病気、失業、貧困など)から救うための手当があります。自分自身がその手当の対象者でありながら、気が付いていないこともあるので、是非、制度の確認をしてみて下さい。(こちら)
また、DVや、ハラスメント、虐待などに苦しんで、一刻も早く抜け出したいと思っている方。シェルターなどの選択肢もありますので、そちらも確認し、行動に移せるのであれば、早めに移しましょう。