カントの思想[ドイツ哲学]:啓蒙とは何か/永遠平和のためにより
カントの思想が生まれた時代背景
1724年にプロイセンのカリーニングラード(現在はロシアの土地)で生まれたイマヌエル・カントが大学に入学する頃、プロイセン王フリードリヒ大王が即位しました。
理性の時代と言われる18世紀は、哲学が宗教からの独立を目指していた時代でした。大王と呼ばれたフリードリヒ二世なくして、ドイツ哲学の発展は無かった、または相当遅れたかも知れないと考えられるのは、フリードリヒ一世の頃には無神論に繋がる思想を発表した哲学者ヴォルフが、大学から追われたことを考えても明らかです。
ドイツの啓蒙思想の背景には、当時のドイツが宗教戦争である30年戦争により大いに疲弊し、イギリスの産業革命、フランスの市民革命から大きく遅れを取り、国としての発展が難しいほどに、民衆も土地も失われていたという事実があります。
産業や市民革命が行えないほどに疲弊したドイツで発展したのが、啓蒙思想でした。
啓蒙思想を簡単に言うと、「自分で考える」に尽きます。自分で考えて、自分で答えを出す。これは、できそうで、できないことです。そんな啓蒙思想は、ライプニッツにより発展し、弟子のヴォルフによりドイツ語で国内に広められました。
ヴォルフ以前は、ラテン語で表記されるのが当たり前だった論文を、ドイツ語で国内に広めたヴォルフは、しかし、無神論者と非難され、一度は大学から、町から追い出されてしまいます。しかし、その後即位したフリードリヒ大王がヴォルフ哲学を熱心に学んでいた事もあり、大学に呼び戻され、晴れて啓蒙の哲学の時代が始まるのです。
啓蒙とは何かは、カントとメンデルスゾーンによりほぼ同時に考察された
カントが『啓蒙とは何か』という論文を出版する前に、同じ雑誌に、ほぼ同名の表題の論文が掲載されています。これは、音楽家メンデルスゾーンの祖父であるユダヤ人哲学者のメンデルスゾーンによる論文ですが、メンデルスゾーンは、啓蒙とは、一般大衆がそれらの言葉をほとんど理解していないものとしながら、理論的意味の「教養」としました。
その内容を見る機会がないまま書かれたカントの『啓蒙とは何か』は、その後、啓蒙の一般的な定義とされましたが、この『啓蒙とは何か』は、決して古くなることのない重要な概念が示された短い論文です。
啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。
カントは、未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができない状態のこととしています。
現実的に、現代の未成年の状態を見れば分かることですが、未成年の場合には、誰もが、親や先生といった大人の指示に従うことで生きる道筋を示してもらいます。しかし、かつての世界も、もちろん現代でも、大人だからといって突然、生きる道筋を自分で決定し、何の目印も、道路もない道を、自ら開拓しながら歩けるようにはなりません。
ほとんどの人が、敷かれたレールや、先人が歩いた後のある場所、自分が考えなくても済む場所を選んで歩いているのではないでしょうか。
カントは、こうした未成年の状態にある人々のことを、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う勇気を持てないから、自分の意志で未成年の状態を選択していると言いました。
知る勇気を持て。つまり、自分の理性を使う勇気をもて、というカントは、人々に啓蒙を促していきます。
未成年の状態は楽。未成年の状態の人を動かすのも、楽。
考え無いことが当たり前の人にとって、考えずに済むことはとても楽なことです。考えたこともない事を考えるのは疲れるし、誰かが、安全で安心な道筋を描いてくれて、それに従っていれば、たいていの場合、楽に生きられます。
企業に勤めるのも、お金の預け先、保険の加入、税金の支払いなど、とにかく面倒なあらゆる事柄について他人の指示に従い、ぶつぶつ文句を言いながらも、疑問に思ったり深く考えないのは、それが楽だからです。
カントは、ほとんどの人間は、他人の指導を求める年齢でなくなっても、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っている、と指摘します。
さらに、人々の中には、そうした考え無い人々を、自分の都合の良いように動かすために利用する人もいると指摘します。
他人を監督することを選ぶ人は、考え無い人が増えることを望んでいます。反抗することなく、世の中はこういうものだと付き従って働いてくれる人がいれば、こんなに楽なことはありません。使う側の人間にとっても、考え無い人が増えることはありがたいことなのです。
カントは、人を家畜に例えながら、飼い主は家畜を愚かにし、家畜がひとりで外に出ようとすると危険なのだと脅かしておくと言うのです。
人々を未成年の状態、何も考えられない状態にしておくためにこそ、法規や決まりごとが設けられているとカントは指摘しますが、それは、現代の世界でも同じと言えるのではないでしょうか。
最近になって、この道を歩けば正解であるという道筋がだんだんと消えてきてはいますが、多くの人が、安全で、考え無くても無事に人生を歩ききれる道筋を探しています。
多くの人は、楽をしようとする余り、自分で考えることができず、未成年の状態から抜けだし、啓蒙することができる人はごくわずかにしかいないと、カントは嘆いていました。
フリードリヒ大王の時代は理想的な君主制による共和制時代
君主制の時代は、その君主によって良い治政の時代にもなり、悪政の時代にもなります。
時代が少しずれていたら、カントは存在しなかったかも知れません。カントは、晩年に君主が変わり、思想活動が制限されるまでのフリードリヒ大王の時代を生きたからこそ、人々の知を開こうとして哲学的な思考を深めることができたのです。
現在でも同じことですが、素晴らしい指導者に出会わない限り、「どうしてこの問題はこう解くのですか?」と学校で尋ねれば、「これはこういう公式だから、そういうものだと思ってとにかく解きなさい」と言われ、「どうしてこのような仕事をするのですか?」と仕事に疑問を持てば、「そういう慣習だから、ただやれば良いんだよ」と言われるでしょう。
フリードリヒ大王が優れた君主として尊ばれたのは、王ですから、当然服従することは求めましたが、好きなだけ議論をして良いと認めていたからです。
カントは、理性を私的な利用と、公的な利用とに分けて考えました。私的な利用というのは、一市民として、自分の意見を、考えた事を、公的な利益に矛盾する形で影響させてしまうことです。例えば、税金の支払いを拒むことや、公的に決められている使命に背くことは理性の私的利用であり、良くないとしています。
ただ、もしも、税の支払い体制がおかしいとか、公的な決定事項に問題があるとして、学者になって論文を発表するなど、市民としての義務とは別の形で、長期的な公的利益追求のために疑問を呈したり、考えを示すことは良いこととしました。
カントは、『永遠平和のために』の中でも示すように、理想の体制を君主による共和制であるとしていました。これは、フリードリヒ大王の時代が恵まれている、理想の時代だと感じていたからこそだと思いますが、フリードリヒ大王を念頭に、理想の君主について、以下のように述べています。
寛容という語は高慢なものだと感じて、みずからは使わないことにしている君主
統治者として、人々が未成年状態から解放され、良心にかかわる問題について、みずからの理性を行使する自由を各人に与えることができる君主こそ理想としました。
人類は、自然に啓蒙の道へと向かうと考えていたカント
人類が、意図的に粗野な状態に閉じ込められない限り、人は未成年状態から抜け出していくとカントは考えていました。
カントは、自由な思想が、自由に行動する能力につながり、それは統治の原則にまで及んで、人間はもはや機械ではなくなると言っています。
現在でも、人々が啓蒙していると考える人はそう多くはないでしょう。
『永遠平和のために』の中で、民主制は良くないと訴えていたカントですが、民主制は、その本来の意味では専制的体制であると指摘しています。
民主制が良くないとは、どういうことかというと、民主制は、全員の一致という形、または多数決により決議されることで、結局のところ、社会の成員である個人一人一人の同意を得られないため、個人の意志とも、自由とも矛盾するからだと言います。
カントは、代議的ではない統治形式(自分の意志を代表するものが真に存在する状態ではないということ)は本来まともでない形式としています。なぜなら、立法者が、結局のところ執行者となってしまうからです。
カントは、公共の利益を守るためにも、大前提として従うべき法律はあるべきとしながら、しかし、自由に議論を続けることで、その法律がさらに優れたものへと更新し続けることのできる道を示したかったのではないでしょうか。
カントは、人々は、道徳的な法則には服従しながら、お互いの人格の尊厳によって結び付いた社会を理想としました。
こうしてカントは、人間の自由意志に基づいて成立する法的状態の中に国家を求めましたが、いつか、それも遠い未来に叶うかもしれない永遠平和についても考察しています。
永遠平和のための条項で永遠平和は実現できるか
カントが『永遠平和のために』で掲げた平和のための条項を見てみましょう。
戦争原因の排除
停戦、休戦のために交わされた平和条約は、平和条約ではないと言ったカントの言葉の背景には、当時交わされていたフランスとプロイセンのバーゼル講和条約締結があります。
この条約は、事実上の休戦条約で、戦争が起こる可能性が含まれているものでした。
現代の世界でも、交わされている条約の多くは、永遠の平和(カントは、平和という言葉はそもそもそれ自体が永遠を意味すると記しています)を意図したものではなく、地政学的な摩擦や衝突によって、簡単に破棄できてしまう事を考えると、今の世界でもまだ、1番の予備条項は実現していないと言えるでしょう。
国家を物件にすることの禁止
国家は所有権のあるモノではない。というのが、カントの主張です。統治権を継承することはあっても、人が集まってできあがる国家というものそれ自体を、分割したり、奪ったりすることはできないし、それを行うということは、道徳的な人格としての国家を失わせることだとしています。
現在の世界でも、国家の間での国境線の争い、奪い合いは続いており、これもまた、実現には遠いこと、と言えるでしょう。
常備軍の廃止
常備軍は、戦争の可能性を高め、常に相手国へ戦争の恐怖を与えるものとして、廃止を求めていました。防衛の概念には、必ず攻撃可能性が含まれます。どこかの国が核を持てば、対する別の国家も核を持たざるを得なくなる。こうして、軍事費が巨大化することで、国家そのものが疲弊してしまう懸念も含め、カントは常備軍の撤廃を求めていました。
有事の際には活躍するとはいえ、常備軍を持つことは費用が膨大な上に、戦争の可能性を高めてしまうこともあります。しかし、現在でも、常備軍はあって当たり前という考えが普通です。これもまた、叶わぬこと、なのでしょうか。
軍事国債の禁止
平和の実現を目標とする以上、軍事費を国債で賄うことは障害にしかなりません。カントは、当然それを禁止としましたが、それに加えて、軍事目的の国債の発行は国の破綻に繋がるとしました。(その他の目的の国債発行は問題ないとしています)
戦時費用を国債で発行してまかなった日本がその後どんな道を辿ったかを考えれば、カントの考えは正しかったと言えるでしょう。
現在では、軍事費のために国債を発行しようという考えがあれば、それに対する非難の声が上がる環境は出来上がっていると言えるかもしれません。
内政干渉の禁止
カントは、他国への暴力的な干渉を禁止しています。
しかしこれも、中東の現在の様子等を考えれば、実現の難しさが窺えます。
卑劣な敵対行為の禁止
暗殺者、毒殺者の利用、降伏条件の破棄、暴動を扇動するといった卑劣な行為は、戦争状態においても行ってはならないとしています。カントは、戦争状態であっても、敵国の思考方法への信頼はあるべきとしているのです。なぜなら、そうでない限り、戦争は相手国を絶滅させるまで続くからです。
カントは、国家を人格として見ています。そして、国家間に上下はなく、対等であるとしています。これは、ホッブズが提唱した主権国家に由来する考え方ですが、主権国家においては、国家間を束ねて、支配する機関等がありません。
カントは、戦争が起こる理由は、国家間における裁判制度が機能していない事による悲しい結果としています。
こうした背景から、カントは、国際連盟・連合の重要性を説くようになります。
カントは、これに続く確定条項として、市民体制が共和制であるべきという主張と、国際法は連合制度に基礎を置くべきという主張と、世界市民法は、普遍的な有効をもたらす諸条件に制限されるべきとしています。
共和制については、上記で述べた通りです。国際法については、第一次世界大戦後に、国際連盟という形で実現します。
第三の条項については、グローバル化に関する内容です。カントは、敵対的に振る舞わない限りは、グローバル化は推進すべきと考えていました。しかし、現実にはカントの時代に他国との関係で進んでいたのは植民地化であり、カントはこれを激しく非難しています。友好的に、他国に行き来できる状況を望んでいたのです。
カントは、こうした永遠平和の実現のためにも、啓蒙が必要と考えていました。自分の力で考えるということは、あらゆる疑問に、自分なりに答えを出していくということです。
科学的な見解でさえ、まだまだ分からないことが多い人間にとって、問いを立てることはできても、答えを用意するのはとても難しことです。けれど、答えが出ないから、議論に意味がないとしてしまうと、人々が自分の力で考える日はやってこないでしょう。
難しいことかも知れませんが、議論することを、否定することと捉えることも、議論することを、現状に反発することと取られることも、本来の啓蒙の意味とは違います。導き出す答えが全員違ったとしても、考えること、議論することに意味があるということです。
『啓蒙とは何か』はすぐに読めてしまうとても短い論文です。思想は、時代背景に大きく依存します。
カントが影響を受けた思想家たち、モンテスキューやルソーについて、また、その後の思想家たち、ヘーゲルやマルクスなどについても考えながら、読み進めてみると、面白いかも知れません。