常識やみんなという考えは実は非常識な人がつくっている

常識とは みんな 知識/教養
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常識やみんなという考えに違和感を覚える理由とは

常識は宗教と同じで疑われないことが前提になる

常識=みんなという言葉は、一つの宗教です。宗教の下で人は、教えを疑うことは否定されます。

 

みんなという言葉、常識という言葉を信じている人は、「みんなそうだから」という言葉を疑うことはありません。

 

みんなこうだから、という言葉に安心した経験はありませんか。

 

けれども一方で、みんなそんなもんよ、と言われ、私はみんなと一緒じゃないのにという不満を抱いた経験もあるのではないでしょうか。

 

みんなという言葉はとても便利に利用されることがあります。

 

1つには、誰もが同じだけの痛みや責任を負うように促すために使われる方法です。

例えば、「みんながやっている」という言葉で、同じ行動を促されることがあります。

 

1つには、誰もが同じ経験や体験をしていることを共有するために使われます。

例えば、「みんなそうだから、大丈夫」という言葉で、よくあることだから心配しないで、と安心させるために使われることもあります。

 

けれど、「みんな持ってるんだから、買って」と、親に何かを買ってもらおうとしたら、「みんなって誰?」と詰め寄られ、「みんなってほどみんなは持ってないね」と物を買ってもらえなかった経験をした人もいるかも知れません。

 

それどころか、「みんな持ってても関係ないよ、うちはうち」と、みんなの枠に入る必要もないと、みんなと同じになりたいことを否定された事がある人もいると思います。

 

都合の良いように使われている「みんな」という言葉は、しかし、大きな単位で見ると政治的にも重要な意味を持って使われていることもあり、「みんな」を日本人というナショナリティに置き換えられたり、「みんな」を多数派の意見として捉えられたり、普段使っているよりももっとずっと、みんなという言葉は大きな意味合いと攻撃力を持っています。

 

みんなという言葉に安心する理由

みんなそうだ、という言葉に安心する体験は多数派に属していることに安心する気質を育てます。行き過ぎれば、みんなと同じでなければ悪という考えにまで及ぶ、常識的であることへの縛りは、なぜ安心感を生むのでしょうか。

 

安心するということは、安全であるということです。安全な場所では人は死ぬことはなく、平和に生きて生けます。つまり、常識を守っていれば、みんなと同じであれば安心だというのは、常識を守り、みんなと同じであることで生きる可能性を高くするということです。

 

みんなと同じ服装をして、みんなと同じレール上を歩んでいくことで、今ある世界や文化を肯定し、それが持続することで平和が続くと信じることが、みんなという宗教です。

 

みんなという宗教が出来上がると、常識を疑う人間は、宗教を疑う、神を疑う人間になり、そうした少数派は排除されるような動きが活性化します。

 

みんなという言葉に不満を抱く理由

一方で、みんなという言葉に不満を抱く人がいたり、みんながそうでも、自分は違うという考えが生まれる根底には、誰もが同じ色に染まっていくこと、同じ型にはめ込む事で見て見ぬふりをされてしまう、真実への無関心に恐怖しているという面があります。

 

例えば、誰もが同じ方向へ向いて意見を合わせていくことが、戦時期には集団のナショナリズムを高める役割を果たし、戦争をより加熱させます。独裁国家の誕生を許す原因にもなるのが、この常識の恐ろしいところです。

 

今の世界から見たら常識ではないことも、ある時には常識で、当たり前で、みんなしていること、になるのです。

 

みんなが同じであることに違和感を覚える人は、人々の考えが一方向へ傾いてしまったり、個人の痛みを理解せずにみんなという常識でまとめて乱暴に片付けてしまうことに疑問を抱いています。

 

ただ、あまりにもみんなという常識の流れに逆らってばかりいると、場を乱す人間として嫌がられ、安全を脅かす人間として嫌悪されるようにもなります。

 

みんなという言葉は、はみ出しものを作り出さず、コントロールしやすい社会を作るためのものですが、それと共に、個人が楽に生きる手段でもあるのです。

 

真実を見たい人ばかりではない

人間は、人間同士である限り、見た目や身体付きに共通項が多くあります。さらに、人種が違っても交配して子供を持つこともできるほどに、一人一人が近しい関係にあります。

 

それでも、人と人はすぐに争いはじめるのは、誰もが自分の利益を最優先に生きているからだと言われます。法律も常識もない世界では、人は簡単に奪い合い、傷つけ合って生きていくでしょう。

 

そこで、自分の利益を他人に奪われないためにも、「常識」という名で法律や規範を作っていくことになるのですが、常識も完璧ではありません。

 

時には、常識が人を殺すこともありますし、常識が強くなるとその常識から外れた人間は世間から追いやられ、居場所を無くしてしまうこともあります。

 

多くの人が、心のどこかで、頭の片隅では常識が完璧なものではなく、常識的でないことも起こり得ることを知っていても、常識に囚われて生きていくのは、それが楽だからです。

 

とりあえず多数派に混じっていれば、苦労することなく、楽に人生を終えられる。そう思うからこそ少数派を無視し、多数派の意見に混じるのです。

 

同じ行動を取りたがる理由はリスクを下げるため

常識は多くの場合において、人を守っています。常識的にはこう行動するのだと教えられることの多くは、失敗しないための方法であったり、他人に迷惑をかけないための方法であったりします。

 

例えば、「社会人として5分前行動は常識でしょう」という言葉には、5分前行動を心がけることで遅刻をしないという事だけでなく、メモを取るようになったり、スケジュール管理ができるようになったり、他人を優先する意識を高めたりという相乗効果を持つという意味が隠れています。

 

しかし、日本では常識となっている、話し合いが終わるまで続く会議が、海外では決められた時間を超えて会議を行うことは他人の時間を無駄に奪うために非常識であるように、時と場所によって常識は変化します。

 

さらに、「家に入ったら部屋着を着る」という人も、「家でも人に見られて良い格好をしておく」という人もいるように、考え方で常識は変わります。

 

このように、常識というのは、環境によっていくらでも変化するものです。

 

本来の意味を失っている常識もある

言葉の意味が時代とともに変化することがあるように、常識の本来の意味が変わることもあります。

 

葬儀の際には真珠のネックレスを身につける方も多いと思いますが、真珠のネックレスを付けるという文化そのものは欧米から入ったものです。過去にはなかった文化が今では常識のようになった例の1つです。

 

しかし、真珠のネックレスを付けなければならないという決まりがある訳ではありません。にもかかわらず、今では真珠の1つも身につけていないとは、と陰口を叩かれる人がいるほどに、真珠のネックレスが使われるようになっている背景には、ステータスを表すものの1つとして作用している面もあります。

 

本物の真珠かどうかを気にするのも、本物を身につけられるほど豊かかどうかという、お金があるかどうかの指標になる場合もあり、結果的に、みんな一緒という常識が、差別や区別を助長することにもなっています。

 

みんなが一緒であると言いながら、一緒の中で差を付け合い、人を区別しようとする。これは、人が、結局のところ利己的に生きているがゆえに止められない競争心があることを表している例です。

 

常識から外れて生きてみる楽さもある

常識に埋もれて生きていくのが楽な人がいる一方で、常識やみんなという言葉にアレルギーを感じるほどに、みんなが同じになろうとすることに違和感を覚える人もいます。

 

これは、感じ方の差なので、そこに善悪はありません。

 

ただ、常識やみんなという言葉に従って生きる方がごく普通と言われる幸せは手に入りやすく、安全に生きていける確率は上がります。

 

しかし、常識やみんなという言葉から離れ、独自の生き方を開拓していく方が、確率は低いものの大きな成功者となったり、他の人には気付けないリスクに気付いたり、自分にしかない幸せを感じられる確率は上がるのです。

 

新しい常識をつくる人は、むしろこうした常識外れな人たちです。常識に従う人や、みんなという宗教を信じている人は、実は常識外れな人々の後ろを歩いているという事実があります

 

常識外れな人が創る常識が、素晴らしいものであることもあれば、人を死に至らしめるものであることもあるように、常識というのは存在していても、していなくても、人を助けることも追い詰めることもあります。

 

常識でも非常識でも良識を持つことが大切

常識的に生きるか、他人とは違う考え方や発想を大事にして生きるかは選び方の問題です。ただ、どちらの場合にも、他者にそれを強要したり、他者を貶めることをするような人は良識のない人となります。

 

自分と同じかどうかではなく、その行いが自分や他人を含めて、良い方向にはたらくかどうか、または、悪い影響を与えることはないかを判断することが、人々に求められている力です。

 

常識的であろうと、異質な人であろうと、良心を持たない人間はコミュニティの害となっていき、そうした人々が社会のリスクを高め、人々に、望まない苦痛を与えるのです。

 

常識というのは、生きるためのリスクを低くすると人々が信じるルールです。しかし、ルールは時に歪められ、いつの間にかリスクが高くなってしまうことがあるために、いつの時代にも常識を疑う人が必要になります。

 

常識を疑う人が、また新たな常識を打ち立てると、リスクを低減させるための生き方が変化し、常識が変わります。

 

人がいる限り、このサイクルは永遠に繰り返されていきます。

 

常識に対して疑問を抱く人は、常識を外れた先にある新しい常識に幸せや安全を見出す人である可能性が高く、常識が違うと思うのであれば、自分は何か新しい基軸を作れる人間かも知れないと、そう信じて新たな道を行くのがその人の幸せへの道かも知れません。

 

今日の非常識は明日の常識の可能性があります。

 

常識を疑っている人は、明日の常識は何なのか、未来を見据えて新しい世界の常識を提案し、生きて行くと良いのではないのでしょうか。

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