中世ヨーロッパで「一神教」キリスト教とギリシアの哲学が融合する
インドーヨーロッパ語族とセム語族の融合が「一神教」と「哲学」を結ぶ
4千年ほど前に黒海とカスピ海あたりに暮らしていた人々の話す言葉が「インドーヨーロッパ語」ですが、後にこの人々は、南東はイラン、インド、南西はギリシア、イタリア、スペインへと移動し、西は中央ヨーロッパからイギリス、フランス、北西はスカンジナビア、北は東欧・ロシアへと広がったため、フィンランド語、エストニア語、ハンガリー語、バスク語をのぞくすべてのヨーロッパの言語が「インドーヨーロッパ語」に属しています。
インドのヴェーダ、ギリシアの哲学などはどれも同じ言葉、同じ文化圏を背景に持つため、似通った部分が多くありました。この頃、インドーヨーロッパ語族の人々は数多の神を信仰する多神教でした。このことを考えれば、インド神話、北欧神話、ギリシア神話に似た神々が登場するのも頷けます。
ヒンドゥー教や仏教には、「神はすべてに宿る」という汎神論の考えがあり、ギリシア哲学にも同じ汎神論の考えがありました。つまり、インドーヨーロッパ語族の人々の中には、「魂の輪廻」の考えが深く刻まれていたのです。そんな、インドーヨーロッパ語族にとって大切なことは「見る」ことでした。見通しを立てること、知ることは、全て「見ること」を通じて行われ、プラトンのイデアのように見て知ることが重要視されました。
一方で、セム語族とは、アラビア半島に生まれた人々で、ユダヤ人を含みます。そのため、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はセム系の言葉を背景に持ち、旧約聖書もコーランもセム語で書かれています。キリスト教は、ヨーロッパに浸透する中で、ギリシア語により新約聖書が書かれ、中世にはラテン語が加わり、その後はヘレニズムの哲学との融合が図られたこともあり、あらゆる方向に変化していきますが、ユダヤ教とイスラム教については現在に至るまでほとんど変化することなく維持されています。
セム語族の特徴は、「一神教」であったことです。神はたった一人しか存在しないと考えました。そして、神により生み出された世界は、ただ真っすぐに時間を進めて、いつか終わる。そしてその時には最後の審判が行われるという唯一の歴史観を持っています。そのため、神は、人間の歴史、人間の行動に干渉できる唯一の存在として認められていることになります。
これは、遡って今へとつながる歴史「ルーツ」を大切にする思想へと繋がります。聖地エルサレムがこれほどまで重要視されるのも、歴史の始点から終点へとつながる大切な道筋の1つだからです。そんなセム語族にとって大切なことは、「聞く」ことでした。唯一の神の言葉を「聞く」ことです。
だからこそ、聖書を「読み上げる」ことが大切になります。
セム語族の教えを古い時代から守り続けているユダヤ教とイスラム教では、写真や彫像などは禁止されるか、ほとんど関心が払われません。それは、「見る」より「聞く」が重要視され、ただ唯一の神を人間が描くことはできないとされているためです。徹底した一神教の世界では、神と人間には断絶があります。そして、ただ一本の歴史上を生きる人々は過去にいくつもの罪を犯していることになるので、罪と罰から救われることこそが重要とされました。
後のキリスト教、イスラム教の原点であるユダヤ教の誕生と歴史
放浪の民としての歴史を持つとされるイスラエルの人々は、紀元前1200年頃に長く奴隷として働かされていたエジプトを出て、エジプトのシナイ半島の山の頂において神とアブラハムの一族が十戒の掟を守ることを約束し、イスラエルの地へと戻ります。
その後、紀元前千年頃(ギリシア哲学よりずっと前)に、サウル、ダビデ、ソロモン王が現れ、イスラエルの民は1つの王国に統一され、ダビデ王の時に全盛期を迎えたとされています。王は、神と民との間にいる人々とされ、香油を臣下により注がれて区別された者を表す「メシア」と呼ばれました。この頃には、イスラエルの民は自らを一つの民族として知覚していたと考えられます。
しかし、その後イスラエルは北はイスラエル王国、南はユダ王国に分裂します。紀元前722年にはイスラエルはアッシリアに攻め入られ、ユダは紀元前586年にバビロニアに征服されます。多くの民がバビロニアに連れて行かれ、「ユダヤ人」として生活することになり、民族としての呼び名が固定されていきます。そして、紀元前539年にバビロニアから解き放たれ、ユダヤ人はエルサレムに戻りましたが、その後も数百年もの間他国に攻め入られ、ローマの支配にも苦しむことになり、そのうちに、「人間は罪を罰せられている」と考えるユダヤ人が増えるようになり、より強く神の掟を守ろうと考える人々が増えました。
それを裏付けるように「神は人を滅ぼす」と預言する人々が出てきますが、一方で、「神は人を救うために救世主を遣わす」と唱える預言者も出てきました。中には、現れる救世主は「死」から、全人類を解放するという人もいました。
ユダヤ教からイエスをメシアとするキリスト教が誕生し、ヨーロッパへ広がる
その後、イエスが登場します。イエスは、ユダヤ人であり、ユダヤ教徒でした。そして彼は、人々の前で自らを「メシア」であると名乗りました。
これまでのメシアは、国王であり、政を担うものでした。しかし、救世主と自らを名乗るイエスは、軍事や政治の指導者ではなく、一般の民の間をまわって「あなたの罪は許された」と説く、市民のための指導者でした。
これは、当時のユダヤ教の学者や権力者たちにしてみれば、受け入れられることではありません。軍事力を強くし、強国イスラエルを待つ人々にとっては、救世主とは強い神の国を再興できる政治力と指導力を持つ人間です。
しかし、イエスの「隣人への愛」という弱者への思いやりを持つ考えは、「誰でも祈りで救われる」ことを示し、救世主の意味を全く違うものにしてしまいました。
罪を犯して生きていると自責の念を持つ人や、特権を持たない人々にとっては、イエスの言葉や行いは、美しく、劇的な言葉ですが、誰でも赦されてしまえば、誰もが平等になってしまいます。それは、当時の権力や権威を持つ人々にとっては脅威です。そうした背景から、イエスは磔に処せられることになりますが、ユダヤ教を信じる人々の過去の歴史に「ユダヤ人によるイエスの磔の刑」が加わったことは、その後のユダヤ教の運命を大きく左右することになります。
イエスは死後に蘇ったとされていますが、イエスの復活は、イエス・キリストが神の御子であることの証明とされ、人間の身体は蘇ることができるという望みに繋がり、この考え方は、インドーヨーロッパ語族の「輪廻転生」の考えと合致することになりました。ここから、「一神教」と、インドーヨーロッパ語族の世界観が結びつきます。
ヨーロッパに入ったイエスの教えを主軸とする教えはギリシア語に翻訳され、ギリシア語のメシアを意味する「キリスト」は、その後インドーヨーロッパ語族の文化圏へ「イエス・キリスト」を神とも捉える思想として広がっていきます。
キリスト教を広める過程では、ユダヤ人としてユダヤ教を信仰していた人々の中からキリスト教へ改宗し、信仰を広める伝道の旅に出る人々が出てきます。伝道師パウロは、アテナイを訪れ、エピクロス学派やストア派の哲学者たちと話しています。ユダヤ教は、飲食の戒律など様々な厳しい戒律も持っていますが、伝道師パウロは、キリスト教徒になるためにそうした戒律を守る必要はないとしました。こうして、虐げられている人や貧しい人に祈るだけで救いを与えるただ唯一の神の思想がヨーロッパへ広がり、ギリシアでは多くの女性がキリスト教へと改宗しました。
こうして、「一神教」であるキリスト教が、多神教であった中世の世界に広がっていくことになります。
中世とは、ヨーロッパ古代と、ルネッサンスまでの間の時代を指す言葉で、千年の夜とも呼ばれます。キリスト教がゆっくりと広がりながらヨーロッパの中心的思想となるこの間には、学校制度や大学など、現代までつながる教育体系が出来た他、イングランド、ドイツ、ノルウェーなどが生まれ、民話や民謡がまとめられた時代ですが、一方で、ローマ時代に築かれた文化が衰退し、下水道や公共浴場、公共図書館などの高度の文明がローマ帝国が終焉して100年後にはすっかり廃れてしまった時代でした。入浴することは廃退的であるとされ、若い男性や聖職者などは入浴を避ける事が当たり前になり、中世の時代の衛生意識は地に落ちていきます。
後のペストの蔓延には、下水道設備や衛生観念の衰退が大きく影響しているとされる中世には、経済面でも衰退が起こりました。少数の地主が支配する封建制度が当たり前となり、物々交換に戻ったことで貨幣制度が消え、ローマ司祭がカトリック教会の長となる頃には、教会が最も強い力を持つようになっていきます。
そんな中、教会に対応する力を付けてくるのが、新しい国を創って王となった人々です。中世の時代には、現在まで繋がる文化圏が形成された時期でもあります。西ヨーロッパにはローマを中心としたラテン語のキリスト教文化圏、東ヨーロッパにはコンスタンティノープルを中心とするギリシア語のキリスト教文化圏、北アフリカと中東ではローマ帝国の支配が終わるとアラビア語のイスラム文化圏が出来上がります。古代ヘレニズム文化の都市アレクサンドリアは、イスラムの文化圏に引き継がれたため、中世の間に数学・化学・天文学・医学をリードしたのはイスラム圏です。アラビア数字が世界の主流になっているのも、こうした背景があるからです。
キリスト教とギリシア哲学がヨーロッパにおいて融合していく過程
アウグスティヌス(354年~430年):プラトンの哲学とキリスト教を合体する
北アフリカに生まれ、17歳でカルタゴへと勉強のために移住したアウグスティヌスは、マニ教(善悪、光と闇、霊と物質のように全てを二つに分ける宗教)、ストア派哲学を経て、新プラトン学派の考えに傾倒します。その後、アウグスティヌスは、プラトンの思想に影響されたキリスト教徒として司祭になりました。
キリスト教は、神の神秘であり、信じることで神に近づくことができるとされますが、神に近づくことで超自然的な知識が手に入ると考えたアウグスティヌスは、哲学とキリスト教を融合していきます。プラトンの言うイデア界は、神が世界を創る時の神の頭の中のアイデアであると考えた他、アウグスティヌスは、「悪」とは、「善なるものが存在しない」状態であると考えました。つまり、神の創造物は善でしかないため、それが存在しないということが悪であり、悪が存在できるのは人間が神に不従順であるからと解釈します。
アウグスティヌスは、人には自由意志があり、自分の人生に責任があるとした上で、神に従うことを選べば救われ、そうでなければ地獄に堕ちると言いました。『神の国』という著書の中に、歴史とは、神の国と現世の国との間の闘争であり、崩壊が進むローマ帝国のような現実の国は地上の国であり、神の国とは祈りの場、つまり教会であるとされ、これに後押しされて教会組織が強くなっていきます。
トマス・アクィナス(1225年~1274年):キリスト教とアリストテレス哲学の合体
ローマとナポリの間のアクィノという街で生まれた哲学者であり神学者であるトマス・アクィナスは、スペインのアラブ人が守ってきたアリストテレスの哲学が北イタリアへと入り、ギリシア語、アラビア語、ラテン語へと翻訳された頃にアリストテレス哲学と出会いました。
トマス・アクィナスは、アリストテレス哲学をキリスト教の中に取り入れます。神は存在すると考えていたアリストテレスの哲学は、自然観察と科学を重要視していましたが、アリストテレス哲学はキリスト教の教えの一部であると考えたトマス・アクィナスは、理性や観察によって得られるような真理は、自然の原則の中で人が生きるだけでも善悪を知ることができるように神がそうしたと考え、しかし、聖書だけがそれを掟としてはっきりと基準を示したものであると考えました。
つまり、自然現象に触れる中で、神があることを「見て」取れるとしても、聖書の中にしか神の「声」はなく、それを「聞く」ことは聖書の中でしかできないとしました。
アリストテレスと同じ女性観を受け継いだトマス・アクィナスは、女性は不完全な男性であるとし、女性観については差別的な面がありました。中世の時代に、女性が一段下の存在であるとして扱われたのは、男性が権威を握る社会であったためもありますが、科学的に女性の身体や男性の身体についての発見が進んでいなかったことも理由の一つです。
中世の時代にヨーロッパに広がっていくユダヤ人の迫害の歴史
起源66年のユダヤ人によるローマへの対抗が失敗に終わり、大勢のユダヤ人が虐殺された後、再び立ち上がったユダヤ人は、しかしハドリアヌス帝に徹底的に滅ぼされ、ユダヤ人のコミュニティは壊滅します(128年)。その後、残されたユダヤ人はディアスポラ(離散ユダヤ人)として、中東、ヨーロッパ各地へと散らばっていきます。
キリスト教が広がっていくヨーロッパにおいては、そのキリスト教色が強いほどに「キリストを磔にしたユダヤ人」として、ユダヤ教を信仰するユダヤ人には、財産の所有の禁止、馬に乗ることの禁止など、様々な制約が課されていきます。一方で、キリスト教の文化が強くない場所では、ユダヤ人の中には、専門職や行政官として成功していく人も増えていきます。
中世においては、厳しい戒律の中で勤勉に学ぶユダヤ人は言語能力が高く、識字率と計算力がキリスト教徒よりもずっと高い状況にありました。結果的に経済を支配する能力が高い民族であったことから、ヨーロッパの一般的なキリスト教徒よりユダヤ教徒は裕福になっていきます。
巨万の富を築くものも出現するほどに商才に長けていたユダヤ人は、しかしそのせいで目を付けられることも多く、ヨーロッパのキリスト教国においてはあらゆる理由を付けて富を取り上げられることが頻繁にありました。王国によっては、追放することでユダヤ人が貯めたお金を奪い、反対に受け入れることて再びユダヤ人がお金を稼ぐことを許すなど、都合よくユダヤ人を使っていきます。
神学上の概念として、「ユダヤ人批判」が生まれると、あらゆる理由によりユダヤ人が否定されますが、特に強い否定としては、キリストを殺した人殺しであるというものでした。中世には、ユダヤ教に惹かれる人々もおり、そうした人々のユダヤ化を防ごうとした教会が、ユダヤ教のシナゴークに関わるひどい噂を広げていき、売春、盗人、野蛮な行為はすべてユダヤ人のせいだという噂が市民の間に広まることもありました。
中世の時代は、不衛生な時代であり、教育も行き届いていなかったこともあり、文化的な習慣によって経済的成功を収められるかどうかに大きな差がありました。また、戦争や飢餓が起こった後にペストといった伝染病が起こると、元々飢餓に苦しんでいた、栄養不足で免疫がない人からどんどんやられていきます。すると、比較的豊かなユダヤ人の死者が少ないことから、病原菌の毒をまいたのがユダヤ人であるという噂が立つなど、陰謀論の首謀者として標的とされるようになっていきます。それをまた、時の権力者が上手く利用したこともあり、ユダヤ人は中世において迫害で多くの死者を出しています。
ユダヤ教とアラビアに入ってきた新興キリスト教を背景にイスラム教が誕生
アラビア半島には元々イスラエルからユダヤ教が、その後はヨーロッパを経てキリスト教が入っていたため、イスラム教徒が生まれた土台には、ユダヤ教とキリスト教があります。部族社会であったアラビア半島統一のため、一つの宗教の重要性を感じていたムハンマドは、預言者として教えを広めていきます。アラビア語で書かれ、翻訳することが許されていないコーランには、イスラム教が、ユダヤ教とキリスト教の歴史を経ていることが記されており、ムハンマドは最後の預言者として登場したとされています。
600年頃から広がっていったイスラム教にとっての第三の聖地であるエルサレムがイスラム世界の中に取り込まれると、ヨーロッパからキリスト教徒の十字軍による聖地奪還が試みられるようになりますが、この時にも、ユダヤ人の多くが殺害されています。宗教の起源が同じであり、ただ一つの神(呼び方はそれぞれに異なります)を信仰するということは、同じ歴史を共有していることです。そして、新しい宗教にとっては前の宗教は堕落や廃退の象徴であるため、争いが勃発しやすい要素があります。
実際には、戦争や迫害は、時の為政者や市民が貧困や飢餓、疫病に苦しんでいることの不満のはけ口にしたり、富を奪う口実にしていたという背景がありますが、このようにして、争いの中に宗教が取り込まれていきました。
キリスト教は、比較的解釈が緩やかで規律がはっきりしていなかったこともあり、いくつもの宗派に分かれながら哲学も取り込みつつヨーロッパ各地に根付いていきます。中世の時代、哲学は新プラトン派が西ヨーロッパ、プラトン派は東ヨーロッパ、そしてアリストテレスは南アラブ人の間で広がって生き残っていきますが、この流れが、再び一つに集まって復興するのが、ルネッサンスです。