ギリシア思想まとめ② ソフィスト誕生と強いものが正義という時代【プロタゴラスなど】

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前5世紀頃は民主制がソフィストを誕生させ、強者が正義とされた時代

正義という感覚が生まれ、法律ができ、市民であるというだけで、平等な政治的権利が保証されるようになるまでの時代は、ギリシア思想①で確認しました。

 

民主制ができあがると、多数派の意見が重視されるようになります。そのため、賛同者を多く集めるほどに自分の意見や提案を通すことができるため、言葉によって人を説得する技術が重要視されるようになります。

 

民主制や共和制の政治体制においては、人の心を掴むこと、国民を説得することができなければ政治家として名を馳せることはできません。こうして、国を率いる人たちを市民を納得させ従わせることができる有能な人物にするため「弁論術」を技術として教える人々が生まれるようになりますが、彼らはソフィストと呼ばれました。

 

弁論術は、法律ができ裁判制度が生まれた頃から、裁判で不利にならないために「自己の利益を最大化するための弁論術」として存在していました。前5世紀半ば頃には、シケリアにおいて法廷弁論用のテクニックとして弁論術が生まれています。

 

現代でも、言葉が上手いことが人をコントロールするためのスキルとして有効であることは知られていますが、その技術を磨いたのがソフィストたちです。

 

こうして、読み書き、算数、音楽、体育などを主な教育としていたギリシアに、ソフィストは高等教育を持ち込みます。得意な分野はソフィストによって異なりましたが、彼らは「徳(アレテー)の教師」として、他の人々より抜きんでて立派な、優れた市民であると認識されるようになります。

 

ここでは、前5世紀頃の思想家を代表し、初めてソフィストを名乗ったプロタゴラスと、ペロポネソス戦争により大きな影響を受けて変化した思想を知るために、ソフィストではありませんが、3人の思想家、トラシュマコス、カリクレス、グラウコンについてと、彼らが時代の中で見つけた『正義』という概念の解釈について確認します。

最初に自らをソフィストと呼んだプロタゴラス

プロタゴラス 思想

プロタゴラス(紀元前490~420頃)

後のプラトンが記した『プロタゴラス』の中で、ソクラテスとの対話が記録されているプロタゴラスは、国家社会の成立や、それを存続させていく方法について、神話の神々の話を用いて説明しています。

 

ゼウス神が世界を支配しているとされるここギリシアでは、人々の能力は全て神々のうちのいずれかから受け取っているとされるが、人間は、神によって大地に生み出される時に、アテネ神より「生活の知恵」を、ヘパイストス神より「技術的な知恵」を授かった。しかし、「戦いの技術」や「国家社会をなす技術」を持たなかったために、すぐにでも滅びの危機に直面する。

そこで、ゼウス神が「つつしみ(アイドース)=ヘシオドスの正義」と「いましめ(ディケー)」を与えることで、国という秩序と人々の集結を可能にした。

ゼウス神は、人類全てにこの二つの能力を与えたとし、もしも仮につつしみといましめの能力がないものがいれば、死刑に処すように命じた。

 

プロタゴラスは、アイドースとディケーこそが国家社会の設立と存続に必要不可欠であるとし、それらは全ての国民が持つべきものであるとしました。

 

ここから、プロタゴラスは、人びとは誰しもが自分が正しい正義のある人間であるということを、実際がどうかはともかくとして公言する必要があるとし、誰しもせめて正義があるふりをすべきとし、正義を装わないものは、正気な人間ではないから、正義を装わないものは人間とはみなせないと言いました。

 

このように、プロタゴラスは、国家市民全員が共通で持つべき「つつしみ」と「いましめ」によって、正義があり、節度がある国家社会ができると信じていました。

 

しかし、誰もがはじめから正義を持っているとする「きれい事」とも言えるこのような思想は、ギリシア全土が2つの陣営に分かれて、断続的ではあるものの27年という長い年月に及び戦ったペロポネソス戦争(前431~404年)によって否定されることになります。

長い戦争に苦しめられた人々は、現実世界には正義も節度も存在しないと思うようになったのです。

 

プロタゴラスは、相対主義と呼ばれる、「万物の尺度は人間」という命題を残した人でもあります。

これについて、後のプラトンは、『テアイテトス』の中で、

物事はそれ事態がそのままの状態で何かであるのではなく、その時々の人々がこう思うということに過ぎない

と述べています。

 

プロタゴラスの相対主義の考えによれば、正義とは、国家社会がその時々に思う考え方であり、正義がそれ自体に意味を持って普遍的な何かとして存在することはないということになります。

戦争は、強いものや権力者こそ正義という考えを誕生させる

法律に従っているものや合法なものは正義であり、法律に違反しているものは不正であるというのは、どの時代のどの治政においても普遍的で常識的な考えですが、法律は、時の支配者によって変えられてしまうことがあります。

 

ペロポネソス戦争の時代にも、強い力を持つものによって法律が都合良く変えられてしまうできごとがあったため、これが、人々の『正義』の考え方を変えることになりました。

トラシュマコス(紀元前459~400年頃)の「正義は強者の利益」という考え

トラシュマコスは、「正義は強者の利益に他ならない」「正義は他人にとっての得であり、自分にとっては損になるもの」といった言葉を残しています。(プラトンの『国家』より)

 

強者である権力者などは法律すら変えられるため、簡単に世の中の正義を変えることができてしまうという現実、また、自分が正義のために動く時には、何らかの肉体的、精神的、物質的な損を被ることが多いという現実を表しています。

カリクレス(生没年不明)の「強い者が正義というのは人間本来のあり方」

カリクレスが生きた頃は、自然本来のものについての思想が広まっていました。本能的なもの、自然由来に備わっているものがあるはずだという考えです。そのためカリクレスは、法律として明文化されて守るべき正義ではなく、心から生じるものとしての正義を大事にすべきだと考えました。(プラトンの『ゴルギアス』より)

 

現在でも、格差是正のための富の分配や力を平等にすることが議論されますが、この当時も「平等に持つ」ことこそ正義であり、人より余計に持つ力を有する強い者は、法律によって規制することで弱い市民たちと同じ分量を持つようにすることが正しい行いであると人々は信じていました。

 

しかし、カリクレスは、優れた者が劣った者より多く持つことは正しいことだとしました。現実の世界では、個人の関係や、民族の関係、国家の関係において必ず優劣があり、その優劣が正義とされていると述べます。

 

つまり、トラシュマコスもカリクレスも、理想ではなく、現実としての正義は何かを説明したのです。理想ではなく、現実は結局のところ権力者や金持ちが正義になっていませんか、と確認しました。カリクレスは、自然本来の人の正義とは、自分が他人より多く持てるのであれば持っても良いとすることであり、それができない弱者は、無能であることを正当化するために正義やその他の徳について平等であるべきといっった「きれい事」を述べているに過ぎないとしました。

 

戦争の悲惨さを目の当たりにした時、思想家たちの心には現実の残酷さが見え、理想ではない、現実としての正義のとして、弱肉強食、「力こそが正義」という考えが生まれたのです。

グラウコン(前445~?)「お互いに危害は加えない約束=正義」が得

プラトンの『国家』の中には、グラウコンとソクラテスによる正義の会話があります。グラウコンは、この会話の中では、ソクラテスに正義を擁護してもらうため、グラウコンは、あえて不正を良いものとして会話をスタートさせます。

 

自然本来的には、他人に不正を加える方が得なことで、自分が不正を受けるのは損なことであると言います。しかし、自分が不正を受けることによって受ける害が、自分が他人に不正を加えて得る利益よりも大きい場合もあるとし、人々が互いに不正をしたり、されたりする経験を通じて、相手から不正を受けずに済むだけの能力がない弱者になった人々は、「相手に対して不正をしないと約束することで、自分に不正をしないよう約束させること」が得であると考えるようになるとグラウコンは述べました。

 

例えば、狩りに行って獲物を捕ってきた隣人から、獲物を奪うという不正をすれば、自分はその日は肉を食べることができるという得をします。しかし、ある時、自分が獲物を捕ったら、自分より強い人物がやってきて獲物を奪い、さらに、身ぐるみはがされてボロボロになってしまったとしたら、人から者を奪い合うということの危険性に気づくはずです。

 

お互いに、お互いの物には手を出さないと約束しよう、と考えるようになります。

 

社会に生きる人々が強者ばかりではないからこそ、弱者を守る為の正義が生まれます。それを法律として市民に命じることは、一種の妥協説ということになります。もしも、自分が絶対的に誰よりも優れていて、頭が良く、力も強い強者だとすればそもそもこうした法律が必要ないからです。しかし誰もが人生を通じてずっと強者であることはあり得ません。

 

この、「悪いことはしない。危害は加えない。だから、あなたも私に悪いことをしたり、危害を加えようとしないでね」という約束事は、後の社会契約説に繋がる考え方です。

正義のノモス性(習慣や法律によるもの)とピュシス性(自然本来のもの)

上記の3人の正義に対する考え方は、法律や習慣に従うものであるという点で共通ですが、前5世紀半ば頃には、人間が生まれ持っている本能的な意味での正義と、人間が後になって作りあげた習慣や法律による正義との対立による正義の議論が盛んでした

 

ソクラテスの師とされた、自然学者であるアルケラオスは、正しいことや醜いことは、自然本来のものではなく、あくまで習慣や法律によってできたものだと言ったとされています。

 

前5世紀末のソフィストであるアンティポンは、『真理』と題した書物のなかで、正義は、自分の住む国の法律や習慣とされることに違反しないことであり、自分に最も良い形で正義を利用するには、他者が見ているような場では法律や習慣に従い、誰も見ていないような場所では本能的な正義に従えば良いとし、見つからなければ、法律や習慣に違反した行為も罰せられることはないと言っています。

 

この、法律や習慣はあくまで後付けであるという考えは、プラトンの親族であるクリティアスによっても説明されています。互いに不正を加え合う原初の人々の状態を「自然状態」と言いますが、自然状態では犯罪が多発します。そこで、人々は、これを防いで罪には罰を与えるために法律を作りました。しかし法律ができたからといって誰もがこれを守る訳ではなかったので、「ある利口な男」が、万事を全て見通している「神」を発明し、人々に神々を恐れさせるようにして、法律を守らせようとしたと言います。

 

習慣的なものや法律に対する疑念が生まれると、後付けで生まれた法律や習慣に対して「偽物の正義」ではないかという考えが生まれますが、これは当時、ギリシアが海外との交流が盛んになった時代であり、当時は自分達が当たり前と思っていた常識が覆るような出来事が増えていたことと、戦争によって何度も法律が改編されることで、法律を神聖視する人々の気持ちが薄らいでいったことが背景にあります。

 

しかし、正義はあくまで一時的な国の基準のようなものであり、普遍的には存在しないという考えや、本能や自然的には平等としての正義は存在しないという考えは、道徳や倫理といった法を超えたところで人々が「大事にしたい」と感じる見えない正義の感覚を否定します。

 

法がなくても、習慣がなくても、よりよく生きたいという願いは存在します。そしてそれは自然本来の、本能的な「正」であるとして、その後のソフィストたちによって探求されていくのです。

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