【トマス・ホッブズ】『リヴァイアサン』で国家を模索した17世紀を代表する思想家

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個人の利害がぶつかる自然状態から強制力のある法に支配される国へ

思想家「トマス・ホッブズ」が誕生した背景には封建制度の崩壊がある

17世紀~18世紀になると、伝統的な身分社会を離れ、個人が自由に活動できる時代がイギリスで生まれます。この頃から、人の認識は「支配者と被支配」から、「個人同士」へと移りはじめました。

 

これまでのイギリスは、土地を所有している人々が農民を土地に縛リ付ける封建制度が当たり前で、貴族が支配者階級として発展していました。商工業でさえ、厳しいギルド制度の下で個人の行動は制限され、共同体に縛り付けられていた時代が続きます。

 

しかし、自由で独立した個人という考えが生まれ、一人一人が、「所有権」を持ち、市場では、自由競争によって無限に利益を追求することができる場が開かれると、市民社会が発展していきます。

 

すると、「自由」だからこその摩擦も増えるようになります。これまでは、貴族階級を上とした規律や慣習、身分制度によって決定されていた行動規範があやふやになり、社会に生きる人としてのあり方やルールを、市民全般に適用できるように「法」として改める必要性が出てきました。

 

封建社会のように、誰が1番尊重されるべき存在かが決定していると、それに準じて、2番め、3番目、と、誰に対して敬意を払うべきかが自然と決定していきます。そして、その順位を侵さないように生活するための規範が自然とできていきます。しかし、人々が自由で、誰にも同じだけの権利があるとなると、順位を付ける訳にはいきません。そのため、誰にでも等しく適用できるルールづくりが不可欠となります。

 

実際には、外国との貿易を背景に、金銭を蓄えることができる人々が農家や商家に存在するようになったことで、「貴族の言うことを聞く必要性がない」と感じた人々が、富による力を背景に、これまでの封建制度に反発していった歴史があり、そこから「自由」という概念が社会に浸透していくのですが、この2,3百年にわたる自由という概念の浸透の歴史と、「資本」の蓄積の中では、大勢の命が失われています。その一例として、イギリスの地主階級による土地の囲い込み運動がありますが、これは、羊毛業の発展を支えるために、農民の耕作地を奪うことでイギリスの発展に繋がったものの、多くの人々が職を失い、見捨てられました。

 

個人の時代というのは、競争に負けた人間が社会から弾かれる時代でもあります。しかし、既存の階級制度を破壊するという意味では、個人の競争が大きく役に立ちました。

 

1688年に名誉革命が起こり、王政の下での議会制度が確立すると、身分的な秩序が崩壊し、「神から主権を賜っている国王のもの」という考えがあった「国」が、「国を構成しているのは市民であり、そのまとめ役が王」という考えへと変化していきます。この頃から、ロンドンの人口が大幅に増加し、首都として発展していきますが、この当時の社会思想家として有名なのが、トマス・ホッブズとジョン・ロックです。ここでは、トマス・ホッブズの思想について確認します。

ホッブズが感じる「恐怖」への心から生まれた平和で安全な国家秩序の追求

トマス・ホッブズ(1588年~1679年)

トマス・ホッブズ 思想 分かりやすく

トマス・ホッブズは、スペインの無敵艦隊がイギリスの海岸に接近し、イギリスに恐怖が広がっていたまさにその時に生まれたと言われています。

 

「国」について考察し続けたホッブズですが、そこには、「王と貴族」だけが保有していた権力が、少しずつ市民の手に移っていく時代を目の当たりにしていたという背景があります。

 

ホッブズは、国を統制しようとする政党や、あらゆる勢力がある中、「どれか一つの勢力」によって国を秩序立たせることは難しいと考えていました。そこで、ホッブズは、あらゆる勢力の対立を超えた、「普遍的統一的」な国家秩序の構想を試みます。

 

ただ、現在の政治体制は修復不可能だと考えていたホッブズは、「国」を形成する「個人」に目を向け、身分や伝統、慣習などからは離れて、ただ一つの抽象的な自然的個人について、個人とは何か、個人と個人との関係とはどのようにあるべきかを考え、そこから、社会はどのようにあるべきかを考えようとしました。そして、個人と個人が結びついて、巨大な権力機構として出来上がる「国」について、理論的に構築した試みを、『リヴァイアサン』に記しました。

 

リヴァイアサンとは、古代神話において登場する最強無敵な海の怪獣のことです。個人が集まり、巨大な権力の塊として、理論的に構築される人工的国家を、ホッブズが、最強無敵な怪獣としてリヴァイアサン、と名付けました。

人が生来持つ自然権の衝突を避けるために人の中に自然に生まれる「自然法」

ホッブズにとって人間の本性とは、「欲望」と「嫌悪」であり、そこから、愛や恐怖や憎しみなどの感情が生まれるとされています。人は、本性に基づく感情の動きを受けて行動や言動を決定しますが、感情はそのまますぐに吐き出されるとは限りません。つまり、「嫌だ」と思ったからといって、それをすぐに口に出して「嫌だ」と伝えるとは限りませんが、それは、行動も、言動も、理性によって考慮された上で、最終的に行為に移されるからです。「嫌だ」と言葉で伝えることにデメリットがあると理性で判断すれば、感じている嫌悪の心を胸に閉まったまま吐き出さないこともあるということです。

 

人は、「力への無限追求の性格を持つ」と考えていたホッブズは、本来の人というのは、権力欲や名誉欲、知識欲といった形で欲望を発揮し、力による支配と優越を目標としていると捉えていました。その上で、各個人が「生命維持」と「力への無限追求」という形で「自己保存活動」を行っている時の人間同士の関係性が、「自然状態」であるとしました。つまり、自分の命を守るための行動や言動、そして、自分が優位に立って人を支配できるようになるための行動と言動を誰もが互いに行っている状態が「自然状態」です。

 

自分が、「そうしたい」という気持ちのままに、自分の力を使える「個人の自由」があることは、自然権と呼ばれます。

 

この自然権があり、「自然状態」となり得る状況は、国や共同体といった社会的な仕組みが成立する前から、人との間にある人同士の関係性です。ただ、個人の誰もが、「力を追求する」場では、人の物を奪うことは当たり前になり、争いが絶え間なく起ってしまいます。この状態が、ホッブズの残した有名な言葉に現れています。

万人の万人に対する闘争(戦争)

常に戦闘があるとは限りませんが、常に戦争の危険が存在している状態のことを、ホッブズは上記の言葉で表しました。これは、個人が、個人の生来の欲求と嫌悪で動くことで不可避的に訪れる状態とされています。

 

しかし、この万人の万人に対する戦争が行われてしまう状況では、個人が行わなくてはならない「自己保存活動」を行うことができなくなってしまいます。こうなっては、自分を守るために他人から物を奪うことで、自分が危険に晒されるという本末転倒に陥ってしまうことから、人々は、自然状態から脱出する方が良いという結論に達します。

 

こうして、自然権をある程度放棄する必要があることを人々が認めると、理性によって一般的な個人同士の規則が「自然発生的に出現」します。これを、自然法と言います。

  1. 平和を保てる希望がある限りにおいては、平和のための努力をすること
  2. 平和と自己防衛のために必要な限りにおいて自己の権利を放棄すること
  3. そして、これらは「契約」として守られるべきである

基本となる自然法は上記の通りです。

個人は、他の個人の自己保存(生命維持と力の追求)を妨害しない範囲において、自己保存を制限すべきであり、相互的に自己の権利を譲渡することは「契約」であるとされます。そして、契約であるから、契約は実行されなければならないとされています。

 

自然法は、「自己保存を共存させるための、理性による法規」と言えます。

 

「他人にされて嫌なことは、自分もしてはいけない」という言葉は、自然法を表しています。法律に規定されていないとしても、人が人と共に生きる上での基本的な善悪の基準となるのが、自然法です。

 

ただ、自然法の問題点は、自然法には強制力がないということです。強制力がなければ、理性よりも自己欲求を最善として、自然法を守らない人が出てきてしまいます。

 

そこで、国という概念と、市民のための法律の必要性があるとホッブズは訴えます。

自然権→誰でも自由にできる→自然状態→好き勝手やって戦争になる→争いを避けようと自然法が生まれる→強制力がない→守らない人が出る→強制力のある市民法が必要→国が必要

中央集権的な国を創り、自然法を市民法として人々に強制的に守らせる

「個人の自己保存」が互いに共存できるように平和と安全が約束される秩序を作ることが国の使命です。個人がより集まって、それぞれが自然権を相互に放棄し、個人の意志をただ一つの国として統一することは、ただ一つの絶対不可侵な強大な権力を持つ中央集権的な国家を誕生させます。

 

国家の目的は、「国を構成する全ての個人の自己保存を確保すること」です。そのためには、国を構成する誰かが犠牲になることがあってはいけません。ホッブズの時代には、国の代表といえば王様でしたが、国家の代表である主権者である王様は、あくまで国の代表者として絶対的権力を持ちますが、主権者が追求すべきは、「国の構成員全員の自己保存を確保」することです。

 

こうして、自然法として存在していた人々の間のルールは、国の下で明確に定められ、罰則が付加されることで、実効性のあるものとして機能するようになります。

恐怖は人々をして法を守らせる唯一のもの

絶対的権力による強制力を持つ市民法は、人々が、自己愛によって自分の気持ちを優先してしまう利己性を排除できるように、厳罰によって法を人に守らせようとします。これだけのことをして、はじめて人は、戦争状態を懸念しなくても良いところまで行き着けるということになります。

ホッブズと社会契約論:国や社会を創ることに個々人が合意する「契約」

人の欲望と嫌悪の感情によって、自然状態では自己保存欲求が活動の原理となるため、必ず個人同士の利害が対立します。そのため国を作る必要が説かれるのですが、個人の自己保存についての利害対立を解消するために自然発生的に生まれた自然法を、市民法という形で拘束力のある秩序にし、国家をつくることは、個人個人が、国家を承認することではじめて可能となります。

 

この、「個人の承認」こそが、「国を創ることに対する個人の合意という契約」であり、社会契約論と呼ばれる、国や社会は個人の契約により成立しているものだという考えに繋がっています。

 

ホッブズにとっては、人間は、「理性」よりも、自然状態における「利己的欲望」が大き過ぎるという考えがありました。だからこそ、国が必要であると考え、理想的な国を模索しました。

 

ホッブズが考えた「国」とは、あくまで個人の集合体であり、人々が国として団結し続けるための基礎には、そうさせるだけの強い権力、主権者の強権が必要と考え、国家の運営については、ほとんど権力者に委ねられてしまうという思想がありました。この頃の権力者といえば「王様」ですが、実際には教皇の支配権が強かった時代であり、ホッブズは、主権を神から人へ移す必要性を感じていたと考えられています。

 

当時は、まだまだ「教皇に認定された王権」が強い時代であり、市民に「主権」があるなどと言えば、本の出版が禁止されたり、迫害される可能性もありました。ホッブズの真意がどこにあったかは定かであはりませんが、ホッブズは、主権が王から市民に移りつつあるということを意識しながらも、まずは教皇ではなく、「神から主権を賜った王」が実際の国の運営者であり、主権者であるという考えを浸透させようとしたと考えられます。

 

そのため、人々が望んで国という寄り集まった集合体を作りながらも、その中ではほとんど強制的に「王」に服従させられるという矛盾のある思想になっている点には注意が必要ですが、ホッブズの時代が、実際には教皇が支配する絶対王政から、市民による統治体制へと以降する過渡期にあったことが影響していると言えるでしょう。本当のところ、ホッブズの考えがどこまで発展したのかを探ることはできませんが、それでも、国が、神によって任命された王様の物ではなく、市民によって創られたという考えだけでも、当時はセンセーショナルなものでした。

 

社会契約論については、ロックやルソーらによってさらに考察されています。こちらも参照下さい。

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