体調管理も仕事のうちであるなら仕事を休まないと理屈が通らない

社会問題
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体調管理が仕事であるなら企業がその責任を負わなければならない

 

避けられない病気でさえ責められる社会

 

体調が悪くなれば保健室に駆け込むことができ、病院で薬を受け取っては治るまでベッドで寝ていた子供の頃とは異なり、社会に出た途端に、風邪や病気は「体調管理も仕事のうち」という言葉で自己責任論に持ち込まれ、責め立てられるようになります。

 

この言葉を耳にするたびに、胃の中がぞわっとするような嫌悪感を覚える人も少なくないのではないでしょうか。

 

個人はそれぞれに背負っている健康の度合いが異なる上に、集団生活の中では誰か一人が菌を持っているだけでウイルスがあっという間に広がります。病気にかかることは悪いことではありませんし、一定以上は防げることでもありません。しかし、その際に、苦しむのは免疫力の弱い人や、責任感の強い人です。

 

一定数は同じ土俵の上で全ての人を評価しようとする人がいますが、体調管理も仕事のうちと言葉にしている人の多くが、その意味を勘違いしていることに気付いていません。

労働の立場が高いからこそ免罪符として使われる

 

健康と言われる状態には実は明確な基準がありません。

 

健康状態というのは、一人一人違い、日々身体の不調と闘いながらも仕事をこなしている人はたくさんいます。

 

お腹が弱い人もいますし、神経痛を抱えている人もいれば、生まれつき機能不全を抱えている人もいます。集団生活においては、免疫力が弱い人は他の人よりも風邪に感染しやすくなります。

 

そうした違いに目を向けた時、体調が崩れたというだけで「体調管理ができない人間だ」と一言で評価を下してしまうことは、とても乱暴なことであり、相手の状況をくみ取ることのできない人間のすることだと分かります。

 

16世紀にカトリック教会が発行した罪の償いを軽減させる証明書のことを、免罪符と言いました。人々は、日々の自分が犯していると感じる罪から解放されようと、こぞって免罪符を求めました。

 

今、仕事という言葉こそがこの免罪符のように使用されています。

 

仕事があれば子育てに協力できなくても、約束を守れなくても言い訳として成り立ってしまうのは、仕事にそれだけの権利と権力が集中していることの現れです。

 

国民の三大義務として、教育・労働・納税の義務があるのは、それらがなければ、社会を形成し、人類が発展しながら生きて行くことが困難になるからですが、しかし、免罪符として用いられるほどに労働が義務化された今、労働は、義務というよりも身体を拘束される奴隷としての扱いとなり、労働が、自由のない強制されるものになっているのは確かです。

 

本来、生きるために必要な労働とは、最低限の衣食住を確保することに限られていました。

 

今の人たちが今の技術力を利用して、最低限の衣食住を確保するためだけに働くのだとすれば、これほどまでの労働量は必要ありません。しかし、複雑な社会構造や階級があり、お金のかかった娯楽を必要とする社会では、それだけの労働で社会を維持することはできません。

 

そうして、それがいかなる内容であろうとも、労働そのものを称賛する風潮が人々の間に広がっているのが、今の世の中です。

労働しないことは罪であるという教え

 

免罪符を発行する側にある会社や企業は、労働者に相応の娯楽と質の良い生活を実現可能にするだけの賃金を与える必要があります。

 

罪を犯した人間が償いを免除されるために発行された免罪符にはとても大きな力があると信じられていました。それだけ大きな力を持っているとされる札を、会社や企業が所有している今、免罪符を受け取るためには企業や会社に勤めなくてはなりません。こうして、免罪符を手にしていない人間は、深い罪を負った人間と判断されるようになりました。

 

労働することで、罪が消えるとされる現代の社会では、労働をしないことは、罪を重ねていくことに等しくなります。

 

例えその理由が、風邪を引いたことによる体調不良であっても、生まれながらに背負っている身体機能の欠如であっても、労働をしないことが罪として扱われています。

 

働かなければ、生きてはいけないことと、労働をしないことが罪になることは、イコールではありません。

 

働く、というのは、社会の一部として機能するということです。

 

あなたが、家族の心の支えであれば、それも、あなたが社会の一部として機能して働いているということになります。

 

ストレスを抱えながら働くのではなく、楽しく働くことができないのも、密集した人々の間で感染性のある病気が移りやすい環境で働かなければならないのも、会社や企業が発行する免罪符の力が強すぎるせいです。つまり、今ある企業の文化がそうさせている事であり、まだまだ企業が文化的に発展していない証拠でもあります。

 

インターネット社会になっても、人と人は直接つながらなくてはならない、と過去の習慣に固執して、病気の時でさえ出勤を強いる文化は、文化の後退のようにも見えます。

 

結局のところ、「健康管理も仕事のうち」と発言することができる人は、社会の発展を阻害する人間ではないでしょうか。

「体調管理も仕事のうち」とは、本来は会社に向けられた言葉

 

南極のような極寒の地では、病気の原因となる菌も生息できないために風邪を引くことはすらありません。

 

企業が、体調管理を労働者の義務の一つとして求めるのであれば、企業側に菌のいない状態を作り出す工夫や、身体が健康でいられる環境を提供すること、適切な休みを与えることが必要ということになります。

 

つまり、健康管理を盾に取って体調の悪い日に出勤を強いることは、体調管理を仕事としている企業理念に反するということになるのです。

 

体調管理を義務とするのなら、むしろ、病気の時には積極的に休ませることが重要になります。そうすることで、別の人間に病気が移ることを避けることもできる上に、労働者の早期の回復が見込めるからです。実際、こうした事は、欧米諸国では当たり前の事として行われています。

 

また、企業側についてさらに言えるのは、体調不良の際には、企業が体調管理を怠ったことによる手当を与えなくてはならないのではないかという事です。

 

そうあって初めて、免罪符としての雇用主の義務が果たされることになるからです。

 

免罪符が正しい姿であるためには、子育てで父親や母親を必要としている子供のためには有給休暇を与え、突発的な事故や病気に対応するためにも積極的に休みを与えることが必要となります。

働きやすく、続けやすい。そうした環境を提供してはじめて、本物の権利と権力を有することができるのであって、今の社会で企業が抱える権利と権力は、暴力的な性質を持っていると言えます。

 

人に、罪の意識を与えようとする言葉や行いには、本当の罪人だけではなく、無罪の人間をも裁くことがあることを知らなければなりません。

雇用主と雇用者の双方に求められていること

 

健康的な身体に恵まれた人とそうではない人が同じ環境、同じ負荷で働くことは不可能です。

 

また、同じ環境、同じ負荷を与えられた場所でも、同じ時間内に発揮される能力と仕事量は、人によって違います。それらを定量的に判断し裁くのではなく、個人の特性に合った場を提供できるような環境が、企業側にも労働者にも求められています。

 

あまりにも画一的で、同じことばかりを求める社会では、生産性はどんどん失われていくことになります。体調不良の際には積極的に休む習慣と、企業側もそれを埋め合わせることのできる体制が求められている今、労働者と雇用主である企業や会社は具体的に何をすれば良いのでしょうか。

 

例えば、雇用主の側は、医療機関と企業の提携強化や、企業や会社間の繋がりやコミュニティの形成による助け合いの制度づくり、自由度の高い働き方の受け入れや、古い慣習や考えからの脱却の実現を求めることができます。

 

また、雇用者の側は、生活の質やあり方の見直し、無理をしない働き方の実現に向けて、自分自身の考え方を見直す機会を設けることや、自分の持つ他人を計る〝ものさし〟を見直すことが必要となります。

 

他者を受け入れる社会には、他人への理解と思いやりが必要です。

 

体調管理も仕事のうちという言葉が、仕事を適度な範囲で切り上げ、他人の体調を思いやるための言葉に変化し、その言葉を聴いた人がほっとする社会に変化するように、すぐ近くの世界から変わっていくことを祈るばかりです。

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