優秀な遺伝子は存在するか  優生思想の限界

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優秀な遺伝子を選ぶことができるか

 

優秀の基準を決定することの難しさ

 

障害者と呼ばれる人の中にも、社会的に成功する人はいます。

世の中の人のほとんどは、精神的にも、肉体的にもハンディキャップの全くない人というのはむしろ少なく、何らかのハンデやコンプレックスを抱えながら生きている人がほとんどでしょう。

 

成功や優秀の規準をどこに定めるのかによって、優生の意味は変わってくるのですが、大学を出て、有名な企業に勤める人間になる人を優生と思う人もいますし、非行に走り、刑務所を出たり入ったりするような人間になることを優生ではない、劣性な遺伝子と認定する人もいるでしょう。

 

ただ、大学を出て有名な企業に勤めた人が犯罪者になることもありますし、それとは逆に、若い頃には刑務所に入っていた人が、その後会社の社長となり成功する例もあります。

 

こう考えると、優秀な遺伝子を決定するための基準は、かなり曖昧なものです。

 

障害者という枠組み自体も、あいまいな部分があり、障害者として申請されていない人の中にも障害の診断が降りるだろうという人もいれば、見た目上明らかな傷害を負っていても、大きな成功を収めてた人もたくさんいます。

 

そもそも、優生とは何かを、人が決定することができるのでしょうか。

 

優生の判断基準の1つである遺伝子

 

絶対に病気にならない遺伝子があるとしたら、これは優生の遺伝子と言えるのではないでしょうか。

 

これは、食事や、環境が原因で決まる部分もある、将来的にガンになるといった後年に発病する病気に対してというより、生まれてから、学生を経て就労し、子供を持つまでに病気をしないでいられるかということが問われる事になるでしょう。

 

障害者や難病の認定を受ける人の中には、優生思想によって出産を禁じられ、強制的に不妊にさせられた人がいました。

 

これはなぜかというと、一つには、同じ病を抱えた人が次の世代に出ることが懸念されたからです。

 

子供を産むべきか、そうではないかについては、見た目で分かる病気についての有無、障害の有無が大きく影響してきます。

 

人の判断のほとんどは、視覚で行われるので、目で見てこの人の形質は後生に受け継がれてはならないと周りに判断されると、優生ではない遺伝子と判断されてきました。

 

これに、非行や犯罪が含まれていたのは、こうした非行に走る、犯罪を犯す人々の見た目が、明らかに不良だ、普通ではないと判断されるケースが多かったからでもあります。

 

見た目に明らかな非行少年や、犯罪者たちも、精神病院に連れて行かれ、気づかれないうちに不妊になるように手を下されてきました。

 

これを可能にしたのは、身近な人間や、医療従事者たちです。自分の子供が明らかに障害者だ、非行少年だと思えば、親は不妊になるよう手術することに同意しました。

 

世の中には、子供の可能性を信じ、障害のあるなしに関わらず、子供の成長を促し、社会的に生きる力を高めようとする親もいれば、自分の子供に絶望している親もいます。

 

こうした手術は、たいてい子供の意志を介さずに行われていたし、意志を求められた場合でも、不妊に承諾するように促されました。つまり、他者が、勝手に相手の優劣を決定したということになります。

 

結局のところ、優生という思想は、自分が判断するものではなく、他者が判断するもの、客観的な視点によるものだということが分かります。

 

客観的な視点から優秀な遺伝子を選ぶ

 

もしも自分が遺伝子を選べるとしたら、病気をしない遺伝子が欲しいと思うのではないでしょうか。

 

しかし、この病気をしない遺伝子というのは、時には意志に反してマイナスな局面を持つことがあります。

 

マラリアは、蚊を媒介にして起こる病気ですが、このマラリアに耐性のある鎌状赤血球という病気があります。これは、怪我をした時に血が止まりにくいという、血液の病気ですが、この病気を持つ人は、マラリアに罹った際には、重症化せずに済み、生き延びる確率が上がるのです。

 

病気というのは、ウイルスや病原菌に対する反応です。

 

身体のつくりや、病気の有無について環境で決まるものもありますが、半分程度は生まれながらに決定づけられることになります。

 

つまり、遺伝子によって決まるのですが、この遺伝子というは、身体を作るための設計図です。

母親の身体の中で、子供は、その設計図通りに組み上げられ産まれてくることになります。だからもし、設計図に特殊な情報が刻まれていると、その通り特殊な情報を抱えて生まれてくることになる訳です。

 

特殊な情報は、一般的な設計図通りに生まれた人々から見れば、とても奇異に映ることがあります。しかし、こうした特殊な情報を持っている遺伝子だからこそ、進化の過程では勝者になるということもあり得るのです。

 

つまり、今は珍しい設計図でも、いつかはごくありふれた設計図になっている可能性もあるということです。

 

子供が自閉症で生まれてくることを懸念する親は多いと思います。しかし、シリコンバレーのような特殊な場所(IT企業がひしめく世界)では、自閉症の率はかなり高く、多くの子供が自閉症です。なぜならこれは、親が元々自閉症であることが多いからです。

 

自閉症を持つ子供や大人は、特異な形質(現代の世界では)を持ち、ある一方向にたいして類い希な才能を発揮する傾向にあります。そうして彼らは高額所得者となり、子供を持ち、その子供も自閉症の症状を持って生まれてくるのですが、こうした人々は、現代の世界では成功者とも呼ばれています

 

客観的な視点から考えられる優生遺伝子と成功者は必ずしもイコールにはなりません。

それでも優生という思想が生まれる、今なお消えない背景には、圧倒的に明らかな、優生ではない、と客観的に判断される人がいるからです。

 

社会の健全化と安全のために社会不適合者を排除したいと考える人たち

 

障害があっても、病気であっても、成功した人々は数知れません。

 

反対に、どれだけ健康で、一般的な脳を持っていても、犯罪者になる人もいます。

 

形質は、遺伝により受け継がれることもあれば、遺伝しないこともあります。

 

つまり、絶対にこれが劣生だとか、これが優生だとかを判断する基準を、人は持っていないのです。

 

ただ、この人は社会不適合者だ、と思う人、社会にとって悪にしかならないと思われる人がいることは確かです。

 

精神疾患や知的障害があるかどうかは別にして、感情がコントロールできずに手当たり次第に暴力をはたらき、物を壊して歩く人がいた場合、この人が子供を産んでそもそも育てることができるだろうかと思うのは、当然の事です。

 

人を殺すことを何とも思わず、感情が欠落しているサイコパスに、子供を産み、育てさせても良いのだろうかと心配になります。

 

完全に社会不適合だとされる人は、必ず存在します。

 

そして、その人から生まれた命は、軽んじられたり、捨てられたり、利用されたりすることもあります。

 

では、圧倒的に明らかな場合には、子供を産めないようにして良いことにするとします。しかし、では、圧倒的に明らかな社会不適合者を誰が決めるのでしょうか。

 

優生思想が生まれる背景にある自己防衛の心

 

排除の思想が生まれる正体には、必ず自分の命を脅かされる危険を感じている人がいます。

 

もしも、この世界に支えなければならない人間ばかりが増えたらどうなるでしょうか。支える側の人間は、そうした、支える人のためにだけ働き、神経をすり減らすことになります。

 

現在、日本には身体障害者が436万人、知的障害者が108万2千人、精神障害者が392万人いるとされており、人口1000人当たり、74人、つまり、およそ7.4%が障害を持っていることになります。

 

障害者として認定されている人、そうでない人を含めて、うつ病、統合失調症、神経症性障害など、何らかの精神疾患により病院を受診している方の数は400万人近くに及ぶのです。

 

障害認定はされていないものの、アルコール依存症、強迫性障害、摂食障害などのしにより苦しんでいる人もいますし、大人の発達障害だけで10人に1人はいるとされています。

 

このように、何らかの障害を抱える人が増えると具体的にどうなっていくのでしょうか。

 

障害の認定を受けた人々の中には、障害者年金として働く人々のお金を受取りながら生活をする人がいます。高齢者のための社会保障給付の金額も、年々異常なほどに上がり、今では、1.8人で1人の人を支えなければならない社会になろうとしています。

 

普通に働いて、普通に生活をしている人が今まで以上にお金を余計に払わなければなりません。

 

結局のところ、優生思想の根本には、こうした、支えなければならない相手の増加に対する懸念が隠れています。

 

こうした思想が進むと、安楽死が例えば合法化された場合に、望んでいない死が増えることになります。自分の意志で生活の質の低下を理由に死亡する人と、家族や周囲に迫られて死ぬのでは、死に方が全く異なるものになります。片方は、尊厳のある死ですが、片方は、自殺ではなく、他殺という見方もできるでしょう。

 

日本人の気質として、誰かが右にならうと、それを真似て皆が右にならうという性質があります。安楽死自体は、人によっては素晴らしい制度ですが、日本での導入が懸念され、進まないことの1つの理由に、使えない人間は死んでもらおうという発想が生まれやすいのではないかと思われているからです。

 

生きる権利がある一方で、死ぬ権利があるべきだとは思いますが、それは、他でもない自分が、自分の命を決定するためにあるべきであり、他者の意見や時流に動かされて決めるものではありません。

 

しかし、こうした命の選別という思想が生まれる背景には、苦しい生活を強いられている人々が大勢いるという現実があります。

 

家庭内暴力による相談件数が、約7万件に達する現在、家庭に問題を抱えている家族はたくさんいます。

 

例えば、虐待を受けたことのある子供が親になり、虐待を繰り返してしまうケースもあるし、育児によるうつ病から子供を放置するネグレクトを行ってしまう、または、子供に暴力をふるってしまうというケースもあります。

 

こうした場合、それが事前に予想される場合には、子供を産ませないようにするべきでしょうか。

 

助けたい意志とは裏腹に助けられる人数は限られている

 

自分自身が命の危険にさらされている時に、誰かのために動ける人間がどれほどいるでしょうか。

 

正義について考える時によく使われる問いの1つに、トロッコ問題というのがあります。

 

あなたはトロッコの分岐点に立っていて、トロッコの行く方向を変えることのできるスイッチの前に立っています。

 

その時、制御不能のスピードで走ってきたトロッコが向かう先の、片方の線路には1人の人が、もう片方の線路には5人の人がいて、今は5人いる方向へトロッコが猛スピードで進んでいます。

 

この時、あなたがスイッチを切り返れば、犠牲者は1人で済み、5人は助かります。しかし、あなたがスイッチを切ることで、死ななかったはずの1人が死ぬことになります。

 

この時、あなたは、5人を助けるために1人を殺すことを選ぶか、それとも、トロッコのスイッチは切り替えずに5人が死んでしまう方を選びますか。

 

これは、あなたが、助ける人を選ばなければならない立場に置かれる場合ですが、これ以外にも、何もしなければあなたは助かるけれども、相手を助けたらあなたが確実に死ぬと分かっている状況も存在します。

 

トロッコ問題において、純粋に人数だけで助ける方を瞬時に判断することはできないでしょう。しかし、こうした究極の選択が生まれる状況が、今の社会が抱えている状況なのだと思います。

優生思想が生まれる背景には、弱者を助けたいが、助けることができないという現実が隠れているのです。

 

生まれてきた命は無碍にはできない。そう考える人は多いし、実際に、目の前で困っている人を無視するというのは、それはそれで、心のハードルが高いものです。

 

しかし、弱者を助けたい人間がいて、しかし、助けられる人数が限られている場合、助けることができない人間を選ばなくてはいけません。

 

社会保障費が膨らみ、治安も懸念されるようになると、知的障害や精神障害による社会への負担に対する人の目が厳しくなるのは、助けたい気持ちとは裏腹に、助けられる人数に限界が来るからです。

 

平等を目指す社会では、基本的人権を守るために、日常生活が困難とされる人には支援の手が差し伸べられてきました。しかし、その手の数に限りがある場合、人による淘汰が始まることになります。

 

社会が支えられないほどには弱者は増えていないと考える人や、他人に手も差し伸べられないほどに寂しい社会なのかと嘆く人もいますが、自分で生きることができないのであれば、子供を産むことまではしないで欲しいと考える人もいます。それが、多様な考え方です。

 

考え方そのものに、正解はありませんが、しかし、支援しなくてはならない人の数が増えすぎれば、目の前で倒れている人を無視しなければならない時代がやってきます。

 

そもそも、社会というものがなく、共同体が存在しない世界では、現在のように子供たちや弱者が生き延びる世界はなく、人は、次々と打ち捨てられ、死んでいっていました。

 

それほどに、自然のままの世界というのは、厳しいものです。

 

双子が忌み子とされたのは、食い扶持が減るからで、今でも、世界のどこかでは、双子が産まれれば土に返されてしまう場合も、障害があるからと捨てられ、育ててもらえない場合もあります。

 

日本のような先進国にいると、そうした世界をただ未熟だからと切り捨てがちですが、高齢化の波を思えば、これから先、そうした問題と向き合わなくてはならなくなるし、全く同じ問題を日本も抱えているということに気付かされます。

 

後期高齢者となり、認知に問題のある老人をどこまで生かすのか、そうした問題もこれからさらに大きく取り上げられるようになるでしょう。

 

平等の実現を求める理想の社会から遠ざかるほどに、問題は浮き彫りになり、社会で生きる生産世代が頭を抱えて生きて行くことになります。

 

誰かの負担が重くなるほどに、極端な発想が生まれやすくなり、優生思想による強制不妊が過去のものではなく、明日の未来のことになる日がやってきます。

 

社会が支えられなくなった人々は、家族や共同体により支えることが当たり前になり、そこからあぶれてしまった人は、簡単に見捨てられるようになるのです。

 

法律やルール化することで優生思想は歪む

 

文化的に成熟した社会の実現を求めるのなら、結婚制度を廃止し、親ではなく、全ての子供に対して補償をする制度をつくるしかありません。子供は、お金がなくても教育、食事、住居に困ることがないようにすることなど、従来の形にこだわらず、新しい社会の実現のために動くしかないということです。

 

人間が、社会に生きる人間としての理想を追うのであれば、極端なことを言えば、生殖行為による妊娠を禁止すべきということになります。

 

現在の技術では、体外受精による妊娠までが限界でも、遠い未来には、全ての子供は試験管で育ち、科学により作られた擬似的な子宮を持つ母胎から生まれる世界がやってくるかも知れません。

 

そうでもしない限り、今の世界が理想とする平等の実現にはつながらないからです。

 

ここで、そんなの無理だ、と思うのであれば、むしろ、差別や優生思想を受け入れるしかなくなるでしょう。

 

ただ、今の時代の、今の人間が考える優生的な子孫が、未来の社会で優生の遺伝子を有するとは限らないのが、また、予測不可能な難しい点です。

 

そうした様々な可能性を考え出すと、一人の人間が、誰かの命の誕生可能性について決定することができないことが分かってきます。

 

決められるのは、自分が子供を産むかどうかと、産んだ子供に責任を持つことくらいです。

 

個人の感情として人を助けたい気持ちと、人類という単位で見たときに淘汰される人々について、同時に語ることはできません。

 

考え深い人ほど、能力はあっても子孫を残さないことを選ぶようになるのは、こうした複雑な背景を鑑みてのことではないでしょうか。

 

考える範囲を広げるほどに迷宮入りしていきますが、今できることは、今いる人々の安全を考えることです。

 

幸せかどうか、生き方がどうかについては、個人の判断によりますが、少なくとも、生命を脅かされずに生きるということは、社会を形成した上の最大の条件であって欲しいものです。

 

賢明に生きようとする人が割を食う社会では、生きる気力や子供を産む気持ちも消えていきます。結局は、平等でないこと、不平等の拡大が人々に優生という思想を生んでいると言えるでしょう。

 

誰が成功者になるのかは、誰にも分かりません。

 

ただ、同じ人間として意志を通じ合わせることもできない人に対してまで、慈悲や助け合いの精神で手を差し伸べられるかといえば、それは、無理なことではないでしょうか。

 

一方的に誰かに負担を強いるのであれば、もう一方に対して、それなりの痛手を負ってもらおうと考えるのは、自然なことです。

 

ただ、こうした思想は、すぐに行き過ぎてしまいます。

 

社会的に強制不妊が行われるようになれば、結局のところ、そうした規定に当てはまらないはずの人たちにまで不妊が行われるようになるでしょう。

 

これは、厳しい判断や、難しい判断を伴う場合には、絶対に、一般化をしたり、ルールを作ってはいけないということを示している例です。

 

例えば、避妊をするということが、知能の問題で理解できない人もいますし、悪意のある人で、意図的に自分の子供を産ませていく人もいます。こうした場合に、不妊のための医療行為をするかどうかや、しなければならないかどうかについては、個別に判断されるべきことであり、絶対に基準を決めてはならないということです。

 

基準がある方が、意図せず強制的に不妊されてしまう人が出やすくなります。

 

私たちは、まず、自分を守るという義務を負っています。それが脅かされる状態においてまで、他人を守れないことは必ず出てくるでしょう。

 

「生かすこと」だけを善としてしまうと、それにより逆に自殺に追い込まれてしまうケースも出てきてしまうのです。

 

優生思想の生まれる背景を探ることで、きれい事では片付けられない人間の闇と、無視されている「死」や「命の選別」への欲求と、課題が見えてきます。介護の実体も、施設ではなく、自宅での介護を推奨するように変わってきている面があります。実体から目を背けるほどに、誰かの人生のための犠牲になっっている人が辛い思いを積み重ねていくことになります。

 

自由に意見を交わすことができ、一つの型には囚われず、個別に物事を判断する力がつけば、この世に優秀な遺伝子というものは存在せず、生き方や社会のあり方によって優秀と判断され、社会的に成功する人がいるだけということに気が付き、多様な生き方や選択を認められる社会が実現するでしょう。

 

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