人間は利他的なのか利己的なのか、それともそのどちらでもあるのか
個人が豊かになる中で人間は利己的なのか利他的なのかという論争が生まれた
現在のイギリスには国王がいますが、政治体制は民主主義に基づいています。このような立憲君主制の国家である今のイギリスを形作ったのは、名誉革命でした。王に権利があると考える人々と、国民に権利があると考える人々との間で、妥協的な形で作られたのが初期の立憲君主制でしたが、その後のイギリスでは議会制度ができたことで、過去から長く続いた完全な君主制が消えていきました。
この頃、政治的に大きな勢力となったのは、地主や商工業者などの中産階級です。商工業が発達するイギリスでは、1707年にイングランドとスコットランドが合体し、大ブリテン王国を成立させ、海外に植民地を拡大していきます。
海外貿易、植民地の拡大はイギリスに巨万の富をもたらし、中産階級の地位はどんどん上がりました。一般市民の生活に余裕が出て投資が可能になったことで、投機が加熱しバブルが弾けた南海泡沫会社事件が起こったのが1720年頃です。政府から特権と援助を受けていたとある海外の貿易会社の架空の計画を利用し、イギリスの国債を消してしまおうと画策したもので、これによって、イギリスは、バブルと株価暴落による大恐慌を経験します。
これは、イギリスの国民の中に、「お金に対する欲求」の高まりを見ることができた事件でした。
18世紀に入ってからのイギリスでは、ロンドン市内にカフェがいくつもでき、そこではテーブル毎に常連客がいて、哲学や政治、経済など様々な分野の話が活発に交換されました。ロンドンのカフェからは、いくつもの社交クラブが生まれていますが、この頃には、文芸誌なども刊行され、市民が雑誌を読む文化も浸透していきます。
このように、歴史的にみても初めて、身分を超えて比較的自由に論争できるようになり、かつ金銭的に余裕が出たことで、人々の中の欲求が外側に現れるようになると、人は「利他的」に生きているのか、それとも「利己的」に生きているのかという、利他主義・利己主義の論争が起こるようになりました。
シャフツベリと利他主義:人間にはモラルがあり利己性と利他性を共存させることができる
第三代シャフツベリ伯爵(1671年~1713年)
名誉革命の指導的政治家であった初代伯爵の孫であり、ロックを家庭教師として育ったシャフツベリは、人間の本性は利己的なだけでなく、利他的であると考えた思想家です。
人間には、自己の利益を追求する一面はあるものの、それが全てとは言えないと考えたシャフツベリは、人間は、他人の利益を考え、他人の幸福を願い、他人の不幸を悲しむことができると考えました。利他的な心は、人間が生来持っている感情であるとしたシャフツベリは、この人が本来持つ利他性は、愛情や親切心、同情や感謝の形で現れると考えました。
人は、孤独よりも他人との社交を喜ぶと考えたシャフツベリは、社交嫌いで孤独に生き、自分にしか関心がない人は最大の不幸であると考えました。利己的な孤独な人は陰気であるとし、社交的な人は快活であるとしたシャフツベリは、肯定的な利他的人間観を持っています。
利他心は、人間に「より精神的な満足」を与えるために重要なもので、これにより、社会的に自分と他人をつなぐことができると考えたシャフツベリですが、その一方で、誰もが利己心も持っていると考えていました。
シャフツベリは、大切なのは、利己心と利他心の調和であり、どちらか一方に偏らないことが重要だと考えています。
利己心は、自分を愛する心です。自分を愛せなければ、生きていく上で満足することができません。そのため、利己心と利他心のバランスを取るために、「モラル・センス」が必要であり、感情の働きを制御する道徳原理が必要と考えました。
モラル・センスがあれば、自分の感情と行為、他人の感情と行為について、それが「良いこと」なのか、「悪いこと」なのかを判断できるようになります。人は、誰もが「善」の感情を優先し、それを喜ぶと考えていたシャフツベリは、性善説の立場を取っていたと考えることができます。
感情の善悪の基準は、モラル・センスを磨くことで高めることができますが、良い感情も、悪い感情も、バランスが大切であると考えていたシャフツベリは、個人の利益が社会全体の利益となれることは良いことであり、そうなれば社会に評価されると訴えます。
シャフツベリによる善悪の区別は、私的な利益が公共の利益となることは良いことであり、そうでないことは悪いことであるというものです。こうした、人間と自然を含む森羅万象を調和させ全体的な秩序を保つべきとする考えは、有機的世界観(世界を1つの生き物のように捉え、個人の活動がその生き物の一部であると考える世界観)であったと言えます。
シャフツベリは、あらゆる個人、つまり、一般的な市民に「モラル・センス」があると考え、誰にでも道徳的な感情があると考えていましたが、ここでは、ホッブズが考えていたような自然状態では人々は争いを始めるという考えから時代を経て、社会が進展したことで人間が成熟した様子を見ることができます。
マンデヴィルの利己主義:経済を発展させる利己主義的な思想が国全体を豊かにする
マンデヴィル(1670年~1733年)
シャフツベリの利他的な思想は、人間の現実の姿を理想化しすぎていて楽観的過ぎると捉えた人々がいますが、シャフツベリに対する批判の中でも現実主義の立場からその考えを批判したのは、マンデヴィルです。
オランダ人のマンデヴィルは、青年期にロンドンに移住し、医者となり、イギリスに帰化しました。
マンデヴィルは、個人とは、生来的に利己的なものであり、必ず悪い行いをすると考えていましたが、しかし、こうした悪い行いが、社会全体では利益を生むと考えていました。
ここには、人々の経済活動に対する経験的な観察が反映されています。
人の活動を観察していれば、理性的な判断で言動を発したり行動する人よりも、衝動的に、感情的に動いたり発言する人の方が多いと感じるはずです。
人は、自分を愛する心があり、自分を優先しようと考えます。だからこそ、自己利益を追求することに最大の関心を持っていて、それを危ぶませる人には噛み付いたり、攻撃したりします。さらに、詐欺的な行いをしたり、嘘を付いたり、ずるをするのも、自己愛を満たすためです。
正直であることや、親切であることなどは、美徳ではありますが、こうしたことでさえ「利己心」が隠れていると、マンデヴィルは指摘します。多くの美徳な行為は、名誉や称賛、報酬のために行われ、結局のところ利己心に繋がっています。しかし、だからこそ、こうした利己心は社会全体の経済活動の推進力となると考えました。
マンデヴィルは、人間の「悪い心」が経済的な発展と結びつけば、社会は豊かになると考えました。だからこそ、「道徳的な人」ばかりが世の中に溢れ、正直な人ばかりが利他的に生きる世界ができると、経済活動はどんどん消えていき、貧困な国となると考えます。
結局、宗教家や道徳のある人が非難しようとも、「悪徳」がなければ、経済的に国は繁栄しないし、人々に「やる気」が満ちることはないだろう、とマンデヴィルは言います。
各部分に悪徳が満ちていても、全部そろえばそこは天国となる
マンデヴィルは、人がぜいたくをしたり、詐欺的な行いをすることも、経済的な恩恵を受けようと思うのなら必要なことと考え、国が繁栄する要素として、美徳よりも悪徳が必要と訴えました。
マンデヴィルの視点は、「経済的な利益」が中心となっているため、社会的経済的利益を増やすことが第一と考える功利主義的な観点の立場を持っています。
ただ、悪徳な行為が、経済を促進するどころか、社会に損害を加えるケースもあること、家族や友人関係の中にこうした考えを持ち込んでしまった場合には人間関係を築く事も難しいことから、個人の悪徳を社会的な利益にするためには政治家の力が必要だとも考えました。個人が利己的に振るまうことを上手に利用し、自発的に社会に貢献させるべきと考え、そのための管理を政治家がやるべきと考えたのです。
ここまでで分かる通り、マンデヴィルの考えは、シャフツベリの人間の生来の利他性と反発するのではなく、それを補おうとする思想であったと言えます。
アレクサンダー・ポープ:利己的であることも利他的であることも重要
アレクサンダー・ポープ(1688年~1744年)
文学者として名声を博した『人間論』の著者であるポープの中に、シャフツベリとマンデヴィル両方の思想を見ることができます。
ポープの世界観の中では、全知全能の神が創った宇宙は「最善世界」です。そのため人間が自分たちの不完全さについて不満を持つのは、人間が完璧じゃないからではなく、人間が見ているものが不完全だから、です。
我々が見るのは部分にすぎず、全体は我々の眼に入らない
ポープは、人間にとっての悪は、全体の中では正しく、宇宙全体としては常に秩序が保たれていると考えます。不調和と感じるものさえ、理解を超えたところでは調和していて、部分的に悪だと感じるものは宇宙全体では善であるとして、すべての存在は正しい、としました。
ポープにとっての人間とは、「自己愛」と「道徳」を持つものですが、この2つは、どちらかが善でどちらかが悪というものではないと考えました。そのため、自己愛的な感情による言動や行動が利己的であっても、手段が公正であれば、モラルがないとは言えないとポープは考えます。
モラルというのは、利己的な感情を守るためにあるものと考えたポープは、不機嫌であったり、人を憎んだり、強欲になったりすることがかえって人を賢くしたり、正直な行いへと導くことがあるように、モラルのために利己的な感情が犠牲になる必要はなく、モラルによって利己的な感情から人間的な豊かさを得ることができると考えました。
ポープは、美徳と悪徳は光と影のように結びつき、その区別はあいまいであると考えたのです。
個人の自己愛による利己的な行動や言動が社会への愛と結びつくとき、社会全体と調和した個人ができると考えたポープは、社会の幸福の中で、個人が幸福を感じ、人の心は、個人からはじまって、社会全体へと広がるべきとし、真の自己愛と、社会に対する愛とは同一であると考えました。
人間を肯定的に見る側面が強いこの、利己的であれ利他的であれ個人にも社会にも利益があるという考えは、一般の人々をも鼓舞し、人々に自分たちを肯定的に見る視点を与えます。
現代にも通じる、利己的であるべきか、利他的であるべきかという考えは、シャフツベリ、マンデヴィル、ポープの考えを参考にすれば、結局のところバランスを持った視点で捉える必要があると言えるでしょう。
18世紀のイギリスでは、豊かになったことで経済的に豊かになろうとすることの肯定感、経済活動への肯定感が強くなり、そのためには法を侵さない範囲で利己的であることは悪いことではないという考えが広がっていきました。現在でも、同じような議論が日々されていますが、悪い経験や悪い行いは、度を越さない限りは「経験値」になることは確かです。より現代的で実践的な思想に近づいている18世紀の思想家たちからは、今を生きる上でも学べることが多くなっています。