大人になれない理由は大人が存在しないから

大人 子供 違い 対人関係
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子供と大人の境界線は制度上のもの

 

大人の明確な基準は存在しない

 

「大人」という言葉を自分にあてはめた時、それがしっくりとくる人はどれくらいいるでしょうか。

 

法律上の大人の定義は簡単です。国によってまちまちではありますが、大抵18歳~20歳前後で大人と認識されるようになります。

 

保護者が必要なくなり、自立して一人で社会に出ても生きて生けるようになること。本来、大人とは、そうした社会的な自立性を期待されています。

 

しかし、これを個人にあてはめた場合、自信を持って自分は自立していると言える人間は少ないのではないでしょうか。

 

また、対外的には自立しているように見えても、精神的な面では自分が理想とする、または想像する大人のイメージから、自分はかけ離れていると思うこともあるでしょう。

 

では、何を持って大人とするのか。

 

それは、責任の所在を持って大人と判断されるというのが、一般的な考え方になると思います。

 

責任を負える人は大人であり、大人は責任を負うことになる

 

子供が失敗した時、誰かを傷つけてしまった時、保護者が代わりに謝罪するということは、当たり前にあります。それは、子供自身には責任の全てを負うことができないと、社会がみなしているからです。

 

子供は、大人が責任を負ってくれるからこそ、大人の言葉に従う義務があり、自分一人では生きられないということを自覚することにもなります。しかし、裏を返せば、大人になったと認識される時点から、あらゆる事から生じる責任が、自分ただ一人に降りかかるようになるということでもあるのです。

 

社会的な義務と同時に、大人は、個人一人で刑事的な責任を負うことになり、法律に違反すれば規定にのっとり裁かれることになります。

 

大人であることで期待されているのは、自分を律する力を持っているという事であり、責任を負うことができるということは、つまり、善悪を見抜く目を持ち、悪いことをした、または不可抗力でもしてしまった場合には、それ相応の責任を取ることを受け入れるということでもあります。

 

それには、法律に違反するかどうかだけではなく、他者に過大な迷惑を与える行為をしないということ、モラルへの理解も必要となり、そうした判断ができなければ真の意味で責任は負えず、これは大人であるとはいえなくなります。

 

大人が負う責任というのは、しかし、自分一人に限定されるものとは限らず、自分に対する責任から拡大されて、子供に対する責任、保護している親や祖父母に対する責任にまで発展することもあります。しかし、大人であれば、責任を負えるというのは、本当でしょうか。

 

大人になれない大人たちがほとんどであるという事実

 

自分が大人である、とは言い切れない人も、少なくとも世間から子供と認識される年齢は過ぎてしまっている、と自覚することはできるでしょう。

 

しかし、理想とされる大人・・・・・・つまり、社会的な責任を負うことができ、善悪が理解でき、模範的な人間として生きて生ける理想人。そうした理想に自分がほど遠いと思うからこそ、大人であるとは言えないのではないでしょうか。

 

子供時代に苦しい思いをして生きた人は、余計にこの思いが強くなります。

 

親として、大人としての責任を果たしてはくれない大人に育てられた人は、身体だけは大人と言われる年齢になっても、心はいつまでも大人にはなれないという事が良くあります。しかし、社会は、世間は、成人を迎えた途端に、自分を突き放し、自立しろ、と迫ってきます。

 

誰もが正しい大人ではない世界で、人をだまし、おとしいれ、苦しめて生きていく人々を大人と呼ぶのなら、自分はそうはなりたくない、と思い、大人になるという事に拒否感を覚える人もいるでしょう。

 

しかし、身体が大人であれば子供を持つことができます。そうなると、大人になれない大人が、子供を育てて行くという構図が生まれます。これは、もう何世代もずっと繰り返されてきた構図です。

 

理想の大人は、理想の国家と同じで存在しないか滅多に登場しない

 

理想とする大人は、理想とされる国家が3000前年も昔に描かれ、記され、求める人々がいたにもかかわらず、未だに実現しないように、理想とされる大人もこの世界には存在しないと言えます。

 

よって、内面がいかに未熟であろうとも、成人した時点で大人になるというのが、社会の中の大人ということになるのです。

 

大人なのに。
大人なんだから。
大人のくせに。

 

こうした言葉は、端的に、大人がほとんど存在しないことを示しているようですが、「理想に近づきなさい」と暗に人を促している言葉でもあります。

 

どこの国を思い浮かべてみても、何の問題も抱えていない国はありません。それと同じで、人も、欠陥があって当たり前です。しかし、あの国はここがいい、というポイントが必ずあるように、人にも、あの部分がすごい、素敵だという面があります。

 

ただし、救済や、責任を国が負わずに人を見捨てることがあるように、大人たちもまた、平然と他人を見捨てることがあるのも確かなことです。

 

大人の理想を高く掲げ過ぎる必要はない

 

結果的に、子供を育てられないが、子供を産む大人がいます。

曲がった愛情により、子供を歪ませる大人がいます。

自分を律することができず、犯罪に荷担する大人がいます。

他人の人生に干渉し、他者を歪める大人がいます。

嘘をつくことに抵抗がなく、自分を守ることだけを考えている大人がいます。

 

責任の持てない大人たちは、ここにも、そこにも、あそこにもいます。

 

しかし、社会は、大人を期待することを諦めるわけにはいかないのです。それは、大人であるということを期待する、というその期待を止めた時点で社会が崩壊するからです。

 

しかし、これは、裏を返せば責任が果たせれば良いとも言えるということです。

 

理想を掲げると、とても高いことのように思える大人という概念ですが、しかし、見方を変えてみれば、責任が果たせていれば、それで十分だということもいえるのです。

 

国を支えるために労働力を提供しており、かつ、犯罪を犯さない。そうであれば、どんな趣味を持っていても、どんな生活リズムで暮らしていようとも、何を食べ、何を飲んでいようとも、自由だ、ともいえます。

 

大人には選択の自由があり、誰かに従う義務はない

 

子供を産まない自由があり、働き方を選ぶ自由があり、他人と関わらない自由がある。それらは、大人に与えられている自由という権利のはずです。

 

しかし、習慣や、常識といったものが、こうした自由を奪っていきます。

 

大人として、社会から求められているものではなく、大人同士の関係性の中で互いを牽制し合い、足を引っ張り合うために作り上げられる奇妙な習慣や常識は、「大人として、常識でしょ」という仮面を被ってやってくる事がありますが、これは、剥がしてみれば、何のことはない、ただ、それを発言する人の願望でしかないのです。

 

他人が決めたモラルや、常識、地域の中で古くから行われる習慣を守ることも、大人としてのたしなみだと考えてしまうと、これは、ますます人を大人から遠ざけてしまう上に、他人を自分の常識に引き込もうとする人々の思う壺ということになります。

 

人を不快にさせずに生きるということは、自由を取るならば絶対に不可能なことであり、継続して、意図的に誰かを不快にさせているのではない限り、不快にさせることを余りに怖れてもいけません。

 

大人とは、そうした他人への影響力さえも、選べる人の事です

 

子供心は大人こそ持たなくてはいけない

 

子供のままでいたいという気持ちを持っている人もいます。子供でいたい、という気持ちの根底には、本来、自由を求める気持ちや、楽しさを求める気持ちが隠れているはずです。

 

しかし、大人になったらこれらを手にしていてはいけないと、誰か決めた訳ではありません。

 

子供心というのは、むしろ、大人にこそ必要なものであり、それがなければ人生は重く、苦しいものにばかりなっていくでしょう。

 

純粋に何かを楽しめる気持ちや、夢中になれることは、むしろ、大切にすべきことです。それは、あなたの大人ライフを充実させるものであり、生き方を支えるものになるでしょう。しかし、子供でいたいという気持ちが責任を負わないための言い訳になってしまうと、これは、後で大きなしっぺ返しを食らうことにもなりかねません。

 

自分の分の責任を誰かに押し付け、他の誰かに肩代わりしてもらおうとするのであれば、それは、人間関係の歪みを生む事にもなります。

 

アンバランスなものは、保てなくなった途端に崩れ落ちていきます。

 

もしも、自分が誰かを支えることなく、支えられっぱなしの人生を歩んでいるのだとしたら、ある日目覚めて気づいたら、一人ぼっちになっていて、さらに、自分には生きる力もないために、絶望してしまうという未来があるかもしれないことも覚悟しないといけません。

 

大人は国家運営上の制度でしかない

 

結局、大人とは、制度であり、成人すれば皆等しく大人、という結論が分かり易い大人の定義です。

 

そう考えれば、勝手に、自動的に大人になるのだから、それ以上のことは期待する必要もなく、責任については、法律上の責任を負うに留めればそれで良いのです。

 

それ以上に理想とする大人を追う、または意識するのであれば、それは個人それぞれが求める理想の人間性は何かという議題であり、個別に結論は違います。そう考えることで、人は、もっと自由に生きられるようになるでしょう。

 

あまりにも大人であるということを意識すると、かえって生きづらくなるものです。大人=成人と考えるようにして、他者が求める大人像に縛られることなく、子供心を持って生きてみれば、あえて、大人ということを意識することもなくなるかも知れません。

 

しかし、普段の会話の中では、頻繁に、「理想の人」や「都合の良い人」を「大人」に変換した会話がなされることもあります。

 

そうした時には、脳内でもう一度変換し直してみると良いでしょう。たいていの場合、会話中の「大人」とは、「話者にとっての都合の良い人」を意味していることに気づくはずです。相手の会話の真意が見えてくると、大人という言葉にまどわされなくなってきます。

 

誰かにとって都合の良い大人になる必要は、どこにもありません。大人はただの制度と割り切り、成りたい自分を目指して生きて行きましょう。

 

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